元 継(げん けい、465年 - 528年)は、北魏皇族。江陽王。は世仁。

経歴

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南平王拓跋霄の次男として生まれた。468年皇興2年)、江陽王拓跋根の後を嗣ぎ、江陽王に封じられ、平北将軍の位を加えられた。孝文帝のとき、使持節・安北将軍・撫冥鎮都大将に任じられ、都督柔玄撫冥懐荒三鎮諸軍事・鎮北将軍・柔玄鎮大将に転じた。入朝して左衛将軍の位を受け、侍中を兼ねた。さらに中領軍を兼ね、洛京の留守をつとめた。まもなく持節・平北将軍の位を受け、平城に駐屯した。

498年太和22年)、高車の首長の樹者が北魏に叛くと、元継は都督北討諸軍事となり、懐朔鎮以東の諸軍を率いて討伐した。元継は首領のみを斬首して、残りの人々は罪を許すよう孝文帝に上表して、孝文帝の許諾をえると、反乱軍を次々と降伏させ、高車の反乱を平定した。

宣武帝のとき、元継は征虜将軍・青州刺史に任じられた。後に平北将軍・恒州刺史に転じ、入朝して度支尚書となった。510年永平3年)、青州刺史時代の悪行について御史の弾劾を受け、免官され爵位を剥奪された。514年延昌3年)、北魏の大将軍高肇南朝梁統治下の蜀方面に侵攻すると、元継は平東将軍として徐州揚州方面に進出して梁軍の救援の動きを牽制した。515年(延昌4年)1月、宣武帝が死去すると、軍を返した。

8月、江陽王の爵位をもどされた。まもなく侍中・領軍将軍の位を受けた。さらに特進・驃騎将軍の位を加えるよう内示されたが、元継が固辞したためこれは取りやめられた。518年神亀元年)1月、驃騎大将軍・儀同三司の位を加えられた。4月、京兆王に徙封された。519年(神亀2年)5月、司空に上った。520年正光元年)12月、司空公となった。521年(正光2年)4月、太保に進んだ。522年(正光3年)12月、太傅に転じた。524年(正光5年)12月、太師・大将軍となり、西道諸軍を率いて莫折天生を討った。525年孝昌元年)1月、太尉となった。3月、召還されて関中から軍を返した。4月、子の元叉が兵権を解かれ、死を賜った。526年(孝昌2年)6月、また江陽王の爵位にもどった。

元継は晩年にさらに貪欲になり、収奪は際限がなく、賄賂の受け取りも拒否することがなかった。法官も元継の権勢を恐れてあえて糾弾しなかった。元叉が失脚すると、元継は家に蟄居した。528年建義元年)4月、太師・司州牧となった。同年(永安元年)10月、死去した。享年は64。仮黄鉞・都督雍華涇邠秦岐河梁益九州諸軍事・大将軍・録尚書事・大丞相・雍州刺史の位を追贈された。は武烈といった。

子女

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  • 元叉
  • 元羅
  • 元爽(字は景喆、秘書郎、給事黄門侍郎・金紫光禄大夫)
  • 元蛮(東魏武定末年に光禄卿)
  • 元爪(字は景邕、給事中、元叉とともに死を賜った)

伝記資料

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  • 魏書』巻16 列伝第4
  • 北史』巻16 列伝第4
  • 魏大丞相江陽王銘(元継墓誌)