元景安
元 景安(げん けいあん、生没年不詳)は、北魏・東魏の皇族。東魏・北斉に仕えた軍人。拓跋什翼犍の五世孫にあたる[1][2][3]。
経歴
編集代郡公元永の子として生まれた。爾朱栄の下で大将軍府長流参軍となり、寧遠将軍の位を加えられ、大丞相府長流参軍に転じた。太昌元年(532年)、高歓が洛陽を平定すると、領軍婁昭の推薦で京畿都都督に任ぜられ、父の爵位である代郡公を受け、前将軍・太中大夫を加えられた。永熙3年(534年)、孝武帝に従って関中に入った[4][2][3]。
天平末年、東魏が西魏を討つと、景安は東魏に帰順し、都督に任ぜられた。興和年間、親信都督となった。武定元年(543年)、邙山の戦いに参加して、奮戦して功績を挙げ、代郡公のまま西華都郷男の爵位を受けた。南朝梁の使者が来ると、斛律光・皮景和らとともに騎射を披露した。高澄が高歓の後を嗣ぐと、景安は封土を減らして将士に賜るよう上奏し、石保県開国子に降封され、安西将軍を加えられた。通州刺史となり、鎮西将軍を加えられ、子爵から伯爵に転じた[5][2][3]。
天保元年(550年)、北斉が建国されると、征西将軍を加えられ、興勢県開国伯の別封を受け、定襄県令となり、高氏の姓を賜った。天保3年(552年)、庫莫奚を代川に討ち、本官のまま左右大都督を領した。天保4年(553年)、契丹を黄龍で討ち、北平郡太守を領した。後に柔然に対する征討に従って、武衛大将軍に転じ、左右大将軍を領し、七兵尚書を兼ねた[5][6][3]。
突厥が強盛となると、景安は諸軍とともに北辺を守備した。軍人の不正な蓄財が横行したため、文宣帝がこれを調べさせたところ、景安のみが侵奪をおこなっていなかったので、文宣帝はかれを褒めて清廉ぶりを顕彰した。都官尚書に転じ、儀同三司を加えられ、高平郡を食邑とした。乾明元年(560年)、七兵尚書に転じ、車騎大将軍を加えられた。皇建元年(同年)、侍中を兼ね、鄴におもむいて百官をねぎらい、市井を巡察した。孝昭帝が群臣とともに西園で宴会し、200人あまりで弓射を競ったとき、景安は130歩の距離から的の獣の鼻に射当てて、孝昭帝に賞賛され、良馬・金玉の賞品を受けた[7][8][9]。
太寧元年(561年)、開府儀同三司の位を加えられた。太寧2年(562年)、右衛将軍となり、まもなく右衛大将軍に転じた。天統元年(565年)、并州尚書右僕射をつとめ、まもなく徐州刺史として出向した。天統4年(568年)、豫州道行台僕射・豫州刺史となった。武平3年(572年)、豫州刺史のまま、行台尚書令に進み、歴陽郡王に封ぜられた。景安は豫州の治安を安定させ、管内の少数民族数万戸にも租税を納めさせるようにした。武平6年(575年)、鄴に召されて領軍大将軍となった。北周に入って、大将軍・大義郡開国公として稽胡を討ち、戦没した[10][8][11]。
脚注
編集伝記資料
編集参考文献
編集- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。