元昭
経歴
編集常山簡王拓跋陪斤(拓跋素の子)の三男として生まれた。母は宇文氏。孝文帝が即位すると、司州の茂才に挙げられた。太和年間、尚書の張彝の推挙により召し出されて兼殿中郎となった。499年(太和23年)、斉郡王拓跋簡が死去すると、孝文帝は哭礼をおこなおうとしたが、元昭が宮殿の壁を工事していた。孝文帝は激怒して、張彝の官を剥奪して尚書の任を代行させ、元昭を罷免した。宣武帝のとき、元昭の従弟の元暉が帝に重用されたことから、元昭も取り立てられて員外散騎常侍・尚書右丞・兼宗正少卿となった。尚書左丞となり、平遠将軍の号を加えられた。給事黄門侍郎・司徒左長史となり、散騎常侍の位を受けた。御史中尉となり平南将軍の号を受けた。侍中となり、撫軍将軍の号を加えられ、崇訓太僕を兼ねた。宣武帝が死去すると、元昭は于忠とともに孝明帝を顕陽殿に迎えた。新帝擁立の功績により、楽城県公に封じられた。于忠が朝政で専権を振るい、忠実賢良な人物が冤罪に落とされたが、多くは元昭の指図によるものであった。霊太后が臨朝称制すると、元昭は尚書・河南尹となったが、その統治は暴戻であった。胡国珍の推挙により雍州刺史として出向したが、雍州で収奪と虐政に励み、民衆を害した。後に入朝して鎮西将軍・七兵尚書となり、劉騰にへつらった。散騎常侍・征南将軍・殿中尚書に転じた。522年(正光3年)2月22日、死去した。使持節・散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司・尚書左僕射・冀州刺史の位を追贈された。
子女
編集- 元玄
- 元剛