保科正昭
日本の明治時代前期~昭和時代前期の子爵・政治家・鉱物学者・農商務省官僚。子爵保科正益(旧上総飯野藩主家)三男で、保科氏11代当主
保科 正昭(ほしな まさあき、1883年〈明治16年〉10月1日[1] - 1947年〈昭和22年〉10月11日[1][2])は、明治から昭和期の技師、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・盛之助[1]。
保科正昭 ほしな まさあき | |
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生年月日 | 1883年10月1日 |
没年月日 | 1947年10月11日(64歳没) |
出身校 |
東京帝国大学理科大学鉱物学科 (現東京大学理学部) |
前職 | 京城工業専門学校講師 |
所属政党 | 研究会 |
配偶者 | 保科武子 |
親族 |
義兄・有馬頼寧(農林大臣) 義弟・二荒芳徳(貴族院議員) |
在任期間 | 1925年7月10日 - 1947年5月2日 |
経歴
編集旧飯野藩主・保科正益の三男として生まれる[1][3][4]。父の死去に伴い、1888年(明治21年)3月14日、子爵を襲爵した[1][5]。
学習院を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学理科大学鉱物学科を卒業[2][4][6]。同年10月、主猟官に就任[2][3]。以後、朝鮮総督府技師、農商務技師、東京帝室博物館嘱託、帝室林野管理局御用掛、地質調査所鉱物陳列館主任、京城工業専門学校講師などを務めた[2][4]。
1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[7][8]、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。その他、内閣委員、大東亜省委員、外務省委員、軽金属製造事業委員会委員などを務めた[2]。
著作
編集- 田村栄太郎、保科正昭『朝鮮鉱床調査報告』 第7巻(江原道)ノ1、朝鮮総督府地質調査所、1921年1月。 NCID BA35482626。全国書誌番号:43011270。
- 川崎繁太郎、保科正昭『朝鮮鉱床調査報告』 第9巻(忠清南道)、朝鮮総督府地質調査所、1921年3月。 NCID BA35482626。全国書誌番号:43011273。
- 田村英太郎、保科正昭、篠原正太郎『朝鮮鉱床調査報告』 第11巻(慶尚南道)、朝鮮総督府地質調査所、1921年1月。 NCID BA35482626。全国書誌番号:43011277。
- 保科正昭『台湾及南支那視察談』貴族院〈貴族院定例午餐会講演集 12〉、1926年4月。全国書誌番号:22211573。
- 保科正昭、土方寧『第十三回万国議院商事会議参列報告・南米視察談 昭和二年十二月十五日於貴族院議長官舎』貴族院、1928年2月。全国書誌番号:21373835。
- 川村鉄太郎、保科正昭『満洲国国境方面派遣皇軍慰問団報告』貴族院定例午餐会〈貴族院定例午餐会講演集 56〉、1938年7月。 NCID BB03072701。
- 保科正昭 著、霞会館華族文化調査委員会編纂 編『保科正昭日誌』霞会館、2017年11月。 NCID BB25008466。全国書誌番号:22999776。
親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
- 杉謙二編『華族畫報 下』吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。
外部リンク
編集- 保科正昭 (第4版) - 『人事興信録』データベース
- 保科正昭 (第8版) - 『人事興信録』データベース
日本の爵位 | ||
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先代 保科正益 |
子爵 (飯野)保科家第2代 1888年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |