何羨録
『何羨録』(かせんろく)は、1723年(享保8年)に書かれた、日本最古とされる釣り専門書。陸奥国弘前藩主津軽家の分家である旗本・黒石津軽家の3代当主津軽采女(うぬめ、津軽政兕)が著したとされる。原本の完成は享保元年ごろに遡るともされる。縦237mmx横162mm 119ページの本。
構成
編集背景
編集- 黒石津軽家はそもそも采女の祖父の代に、江戸幕府の命により本家弘前藩の若い藩主の後見役として、また関ヶ原の戦いにおける石田三成と徳川家康の敵対関係にまで根を持つ問題の上で分封成立した背景がある。だがもはや三代目である采女は4千石の高禄を持ちつつも、本藩に対して特段の用もなく、幕府においても非常勤である小普請組所属なのですることもなく、つまり時間を持て余していたらしい。
- 釆女の正妻は吉良義央の次女の阿久利(赤穂事件より前に死去)であり、吉良家とは縁戚関係にあった。采女主従は赤穂浪士討ち入り事件の翌日に朝一番に吉良邸へ駆けつけている。事件による連座、つまり黒石津軽家自体が直接的に減封などの影響を受けることはなかったものの、その後の「世評的に出世の道が途絶えた」ことから余計に(暇になり)釣りに入れ込んだ、という説がある。
- 当時は江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の治世であり、社会には動物愛護の法令である生類憐れみの令が施行されていた時期であった。生類憐れみの令は、釣りに関しても数度の法改正のうちに規制対象に加わったらしく、庶民である絵師の英一蝶は釣り罪を咎められ三宅島に流罪にされており、江戸市中では釣り道具の販売すらも公には禁止となっていた。釣りは小動物(魚)への殺生なのは明白なのではあるが、当時の釣り好きの武士たちは「策(仕掛け、ポイント等)を練り、武具(釣り道具)を入念に手入れ、じっと耐え、じっと忍び、本懐を遂げる(釣果を挙げる)。これ武士の修練なり」というようなもっともらしい理由をつけ、これは武家の修行であるので法の対象外である、として、公儀を憚りながらも釣りを続けていたらしい。ただ、法令は徐々に処罰範囲を拡大し、綱吉の政権末期には、釣りをした罪(道具の製造も含む)に問われて処断された武家(旗本)もいる。
心情
編集序文を書き出しておく。この一文に釣りの真髄および、采女の生涯の心情が読み取れる。
嗚呼、釣徒の楽しみは一に釣糸の外なり。
利名は軽く一に釣艇の内なり。
生涯淡括、しずかに無心、しばしば塵世を避くる。
すなわち仁者は静を、智者は水を楽しむ。
あにその他に有らんか
以下は意訳である。
ああ、釣り人の楽しみは“釣果”に尽きる、などというわけではない。
社会的名誉などは重要ではない。いま、自分の世界はこの釣り船の中が全てであり、完結している。
だが生きていくとそれだけで、どうしてもなにかと煩わしい。
だから自分は人生のそんなことにはこだわらず、とにかく無心に、時々は世の中の煩わしいことは忘れることにしている。
つまり
仁(この場合は慈悲や憐憫)の心を持つ者は心静かであることを楽しむし、
智恵のある者は水に楽しむ(釣り)のだ。
ほら!これほどの楽しみがあるだろうか。
「仁者は静を、智者は水を楽しむ」の部分は、『論語』雍也の「子曰 知者楽水 仁者楽山 知者動 仁者静 知者楽 仁者寿」の引用である。
知恵ある者は(流れる)水を楽しみ、仁を持つ者は(不変の)山を楽しむ。知者は行動的で、仁者は心静かである。知者は変化を楽しみ生きて、仁者は人生を楽しみ長生きする。
という意味である。
「山を楽しむ」の部分は、釣りの本ゆえに采女は無視している。
関連項目
編集- 庄内竿
- ジュリアナ・バーナーズ (1388年ごろ? - 没年不詳) - イングランドの修道女・著作家。イギリス最古の釣りに関する書籍『釣魚論』を著した。
- アイザック・ウォルトン - 『釣魚大全』(1653年初版)の作者。「釣りは詩とどこか似ていて、人はそれをするように生まれつく。」
- ハーバート・フーヴァー - アメリカ合衆国第31代大統領。たまたま在職中に世界大恐慌に遭遇し、失意のまま離職した。フライフィッシングを趣味とし、「魚釣りをしていると、人間社会の騒々しい鉄槌から逃避できる。私が自由な天地に逍遥することができる、ただ1つの慰みである」との言葉を残す。
- 織田信雄 - 織田信長の次男に産まれたはずが、豊臣秀吉と徳川家康の時代に翻弄され、激動の浮き沈みある人生を送り、晩年に(海がない)群馬県の領地を与えられた信雄は、同地に名庭園である「楽山園」を築庭した。「楽山」の名称を何羨録序文と同じ、『論語』の「智者は水を、仁者は山を楽しむ」から採っている。