何 楨(か てい、生没年不詳)は、中国三国時代から西晋にかけての政治家、武将。元幹何禎とも。揚州廬江郡潜県の人。父は何他、息子に何龕、何勗、何惲、孫に何叡。

生涯

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父・何他が早世した時、何楨はまだ母の胎内にいたため孤児となり、戦乱の時代であって外祖父を頼って暮らした。幼年で追って父の喪を行うと、哀悼は礼に適い郷里で賞賛された。十余歳で各書物にふけり研鑽して淮水、泗水方面で名をはせた[1]。何楨は文才、学識を有し、容貌に威厳があったが[2]、家は貧しく筆を縛り(作り)扇を織ることで生計を立てた[3]

青龍元年(233年)、魏の明帝から「揚州別駕の何楨は文章の才知と識見があると聞くので、試しに『許都賦』を作成し、完成したら誰にも見られないよう封印して送るように」という特別な詔が下された。出来上がったものを何楨が送ったところ、帝から評価を受けた[4]。最初、秘書郎となったが、一月余りたって帝は「何楨は秘書丞にするつもりであったが何故秘書郎なのか?」という下問があり、担当者は罰せられ、秘書右丞となった(すでに丞がいたので右丞が新設された)[5]。その後、尚書郎を務め、正始6年(245年)に弘農太守となった。任期中、胡昭を推薦し、崤関の廃止を上表した[6]。また県吏の楊囂(楊脩の子)を見出すとすぐに不臣の礼で招き、朝廷にも推薦した[7]

嘉平6年(254年)、曹芳が廃される際の群臣の上表文に、永寧宮の衛尉(郭太后の宮殿の護衛)として名を連ねている。幽州刺史を経て、甘露2年(257年)頃に廷尉を務めた。同年7月に諸葛誕が反乱を起こし、司馬昭が天子と皇太后を連れて親征することになると、何楨は先遣隊として節を仮されて淮南の将兵を慰撫し、順逆を説明し、賞罰を教示した[8]

後に尚書に遷り、泰始2年(266年)3月戊戌、司馬昭の喪事のためにから張儼が到着すると、羊祜と共に彼と親交を結んだ[9]

これより以前に婁侯に封じられた。泰始7年(271年)、南匈奴劉猛が反乱を起こすと、監軍の何楨は節を与えられ討伐に派遣された。劉猛軍を幾たびか破り、また謀略も用いて左部督の李恪を内通させ、翌八年の春正月には劉猛を暗殺させることで反乱を収束させた[10]。後に光録大夫を務めた[11]

後年、著作がまとめられたようで『隋書』に『何楨集』一巻の存在が記される。

脚注

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  1. ^ 『太平御覧』の引く『何楨別伝』
  2. ^ 『三國志』注『文士傳』
  3. ^ 『太平御覧』《扇》の項。また『晋書』吾彦伝に、微賎から出世した人物の一人として名があがっている
  4. ^ 『太平御覧』
  5. ^ 『藝文類聚』「通典」では帝は文帝とする。
  6. ^ 『藝文類聚』
  7. ^ 『舊晉書九家輯本』虞預《晉書》曰:楨為弘農郡守。有楊囂生為郡吏。楨一見。便待以不臣之禮。遂貢之天朝。初學記二十。
  8. ^ 『晋書』太祖文帝紀
  9. ^ 『三國志』注『呉録』
  10. ^ 『晋書』匈奴伝
  11. ^ 『三國志』『文士伝』で光録大夫。『隋書』では「晉金紫光祿大夫何楨 集一卷。」とあるので加官としての「金紫光禄大夫」と思われる。