佐藤由紀彦
佐藤 由紀彦(さとう ゆきひこ、1976年5月11日 - )は、静岡県富士市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。
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2015年 | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | ユキ[1][2] | |||||
カタカナ | サトウ ユキヒコ | |||||
ラテン文字 | SATO Yukihiko | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1976年5月11日(48歳) | |||||
出身地 | 静岡県富士市[3][4] | |||||
身長 | 177cm[4] | |||||
体重 | 70kg[4] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF[4] | |||||
利き足 | 右足[1] | |||||
ユース | ||||||
1992-1994 | 清水商業高校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1995-1999 | 清水エスパルス | 2 | (0) | |||
1998 | → モンテディオ山形(loan) | 29 | (14) | |||
1999 | → FC東京(loan) | 35 | (6) | |||
2000-2003 | FC東京 | 69 | (8) | |||
2003-2004 | 横浜F・マリノス | 43 | (3) | |||
2005-2006 | 清水エスパルス | 12 | (1) | |||
2006 | → 柏レイソル(loan) | 19 | (2) | |||
2007 | 柏レイソル | 22 | (2) | |||
2008 | ベガルタ仙台 | 27 | (2) | |||
2009-2014 | V・ファーレン長崎 | 103 | (13) | |||
通算 | 361 | (51) | ||||
代表歴 | ||||||
1994 | 日本 U-19 | |||||
監督歴 | ||||||
2024- | FC東京U-18 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2014年11月23日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
編集選手時代
編集小学1年生の時にサッカーを始める[5][6]。1992年に清水市商高へ進学。柔らかいボールタッチと卓越したパスセンスを武器に[7]、1993年の高円宮杯及び選手権を制した。1994年には背番号10を付け、総体優勝と高円宮杯を連覇。高円宮杯では両大会とも自身の得点が決勝点となった[8]。さらに国体でも連覇を経験[3]。
1995年に高校を卒業し、鳴り物入りで[9]清水エスパルスに入団。しかし、クラブにとって絶対的存在のMF澤登正朗とポジションが重なったことに加え[10]、「地元出身のスター候補」という周囲からの扱いも重荷になり[11]、ベンチ入りも中々出来ずにいた。実戦機会を増やす為にブラジルのグレミオFBPAに長期留学に行かされるなど下積み時代が続き、サッカーの楽しさを感じられなくなりつつあった[9]。
1998年に自ら志願して[9]ジャパンフットボールリーグのモンテディオ山形に期限付き移籍。石崎信弘監督の下で攻撃の中心としてトップ下に据えられ、能力を開花させた[10]。ゲームメーカー兼フィニッシャーとして山形を開幕からシーズン中盤まで首位快走させる原動力となり、同年のJFL新人王およびベストイレブンを受賞した。
石崎は翌1999年より大分トリニータへと転任することになり、大分移籍、清水復帰、さらに他数クラブからの獲得の打診と争奪になったが[10][9]、J1昇格を目指す熱意とサポーターの熱さに惹かれ[12]、清水に籍を残したままJ2のFC東京へと期限付き移籍。大熊清監督からは縦への突破力とクロス精度を買われ[10]、山形で務めた司令塔役から右サイドのアタッカーへと転向することになった[11]。当初はプレーエリアや視野の違いに苦しんだが[10]、大熊やサポーターに認められるべく懸命に新ポジションでのプレーを続けて[12]攻撃を引っ張り、J1昇格が懸かる同年のJ2最終節では自身の右足クロスから加賀見健介の決勝点を導いた[9]。また、この年行われたナビスコカップではニューヒーロー賞に輝いた[注 1]。翌2000年に向けてはレンタル元の清水に戻る選択肢もあったが、フロント及びサポーターの熱心な引き留めを受けFC東京へと完全移籍した。この頃はまだ一般的な知名度が高くなかったため、国立競技場での選手紹介の際にスタジアムDJが「斉藤ユキヒコー!」と名前を間違えた事もあった。
2001年、新加入のMFケリーに一時ポジションを奪われたが[13]、全体練習後に長澤徹コーチの下でクロスを「常人ではありえないほど[12]」繰り返し蹴り込んで[14][15][5]向上を追及し[16][17]、5月になって布陣を変更してからはケリーがトップ下、佐藤が右サイドに入る形で先発に復帰[注 2]。長澤の助言を受けてオフ・ザ・ボールの動きも大きく向上し[14]、ケリーとのコンビネーションは、自ら「運命的な出会い」とコメントする程[18] 絶妙なものとなった[13]。同年9月にはフィリップ・トルシエ監督率いる日本代表候補に初選出[19]。リーグ戦終了後には優秀選手賞として表彰された[20]。
2002年は負傷で出遅れていたところ[21]、新監督の原博実は横浜F・マリノスからレンタル移籍で石川直宏を獲得。佐藤はシーズン後半に復帰したが石川の重用は続き、右サイドのポジションを奪い返せずにいた。同年末に入籍[22]。
2003年は複数クラブからオファーを受ける中[5]、横浜FMの「優勝以外は失敗」という目標提示を意気に感じて[12][5]同クラブへ期限付き移籍[23]。岡田武史監督の下でレギュラーに定着し、右サイドからFW久保竜彦らへ高精度のクロスを放って[24] アシストを量産[25][12][26]。クラブのJ1ファーストステージ・セカンドステージの完全制覇に貢献した。シーズン途中には石川と入れ替わる形で[27] 完全移籍へと移行[28]。しかし、2004年シーズン後半になると、田中隼磨の台頭によって控えに回ることも増えていた。
2005年には古巣の清水に移籍したが[29][3]、直後の負傷によって出遅れ、その後も若手の台頭もありなかなか出番がない状況が続いた。
2006年6月、恩師石崎[1] が監督を務めるJ2柏レイソルへ期限付き移籍[30]。先発出場は限られたが、同年のリーグ戦全試合にベンチ入りし[31][32]、FC東京在籍時以来2度目となるJ1昇格に貢献[26]。12月には柏へ完全移籍することが発表された[33]。石崎は佐藤を右サイドではなく、セントラルミッドフィールダーとしての適性を買っており、柏では山形でも務めていたトップ下や、ボランチでも起用された。2007年シーズンをもって契約満了となり退団。
2008年、J2ベガルタ仙台へ移籍[34][35]。山形とのダービーマッチで移籍後初得点を挙げ[36]、持ち前の高精度のキックで[37] 短時間でも流れを引き寄せて得点につなげるジョーカーとして[38] 出場を続けた。同年クラブはJ1との入れ替え戦にまで進出したもののここで敗退しJ1昇格を逃した。12月にクラブから契約非更新が通知され、1年での退団を余儀なくされた[39]。仙台を去る際に残した言葉は次のようなものだった。「1年という短い間でしたが、喜びも哀しみも常にサポーターと共に味わえた自分にとって忘れられない2008年でした。今年からJFLのV・ファーレン長崎で再びサッカーが出来るチャンスをいただけました。この喜びをプレーで表現して、念願のJ2昇格に少しでも貢献出来たらと思います。最後にベガルタ仙台をこれからも愛し続けて下さい!ありがとうございました。」
Jリーグ合同トライアウト参加を経て[6]、2009年3月にJリーグ準加盟クラブであるJFLのV・ファーレン長崎へ加入[40][41]。当初はDF(センターバック)に配されていたが前向きに取り組み[6][42]、本来の右サイドに戻ってからは得意のクロスで健在ぶりを見せた[2]。シーズン中盤にはゲームキャプテンを任され、2010年より正式に主将に就任[43]。スタジアムの不備によるJリーグ昇格断念など困難が続いたが[2]、チームメートからは厚い信頼を寄せられ[2]奮戦を続けた。2011年にB級コーチライセンスを取得[44]。2013年よりクラブはJ2昇格を果たし、自身5年ぶりのJリーグでのプレーとなった。同年の出場機会は僅かとなったが、クラブにとってその存在は大きく[45] 精神面でも牽引を続けた。2014年限りで20年間に渡った現役を引退[4]。
指導者時代
編集2015年、13年ぶりに[46] 古巣FC東京へ復帰し、普及部コーチに就任[47][48]。
2016年シーズン途中から、FC東京U-15むさしのコーチに就任[49]。2019年にはFC東京トップチームのコーチとなった[50]。
人物
編集- 2012年現在4児の父。
- 率先して練習に取り組む姿はチームメートを惹きつけ[26]、FC東京在籍時のコーチであり移籍後も親交のある長澤徹からは、「サッカーに熱く、ひたすら練習する。しかも若手を引き連れて練習するため、(彼が行くチームは)どのチームもチーム力が上がり、力を落とさずに1シーズンを戦い抜ける」と評されている[52]。
- 実家は洋食料理店を営んでおり、子供の頃の将来の夢はシェフだった。インタビュー等で「もしサッカー選手になっていなかったら?」という問いには「100%、コックさん」とも答える[16]。
- 端正な顔立ち、右サイドから正確なクロスを上げる事から、FC東京在籍時に「東京のベッカム」、2003年に移籍した横浜F・マリノス所属時は「ハマのプリンス」とよばれた[53]。
- 甘いマスクの持ち主で、サポーターからも人気があるが、出場機会を求めてJ2や新旧JFLを含めて7クラブを渡り歩いた苦労人であり、ヒーローインタビューにおいて「J2は魂が磨かれる場所」という言葉を残した[54][55]。
- 2012年1月に第4子となる男の子が誕生。前年に亡くなった親友(松田直樹)の名を付け[56]、2013年2月23日に放送された『FOOT×BRAIN』内で、漢字違いの「なおき」という名前が表示されている。
- 横浜FM在籍時のチームメートで同い年の松田直樹、安永聡太郎と親友である[57]。2002年に横浜FM移籍を決めかねている際には、松田から「来年優勝しよう」「お前が来たら絶対優勝できる」と説得された[12]。2011年10月3日に安永とともに「一般財団法人松田直樹メモリアル」を設立。現役を続ける理由の一つとして、松田よりも1試合でも多く出場し、1年でも長くサッカーをやってやると挙げていた[58]。出場数は松田には及ばなかったが、松田よりも長く現役プロサッカー選手として在り続け、サッカー人生20年にあたる2014年に引退した。
所属クラブ
編集- ユース経歴
- 富士JFC (富士市立富士第一小学校)[3]
- 1989年 - 1991年 東海大学第一中学校
- 1992年 - 1994年 清水市立商業高等学校
- プロ経歴
個人成績
編集国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1995 | 清水 | - | J | 1 | 0 | - | 0 | 0 | 1 | 0 | |
1996 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | |||
1997 | 12 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | ||
1998 | 山形 | 7 | 旧JFL | 29 | 14 | - | 4 | 3 | 33 | 17 | |
1999 | FC東京 | 14 | J2 | 35 | 6 | 7 | 2 | 4 | 2 | 46 | 10 |
2000 | J1 | 28 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 30 | 5 | ||
2001 | 28 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 30 | 3 | |||
2002 | 13 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 16 | 0 | |||
2003 | 横浜FM | 7 | 27 | 1 | 7 | 1 | 3 | 0 | 37 | 2 | |
2004 | 16 | 2 | 7 | 1 | 1 | 0 | 24 | 3 | |||
2005 | 清水 | 20 | 12 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 13 | 1 | |
2006 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | ||||
柏 | 42 | J2 | 19 | 2 | - | 2 | 1 | 21 | 3 | ||
2007 | 14 | J1 | 22 | 2 | 3 | 0 | 1 | 0 | 26 | 2 | |
2008 | 仙台 | 24 | J2 | 27 | 2 | - | 2 | 0 | 29 | 2 | |
2009 | 長崎 | 28 | JFL | 23 | 3 | - | 2 | 0 | 25 | 3 | |
2010 | 26 | 5 | - | 2 | 2 | 28 | 7 | ||||
2011 | 10 | 32 | 4 | - | 1 | 0 | 33 | 4 | |||
2012 | 18 | 1 | - | 1 | 0 | 19 | 1 | ||||
2013 | J2 | 3 | 0 | - | 0 | 0 | 3 | 0 | |||
2014 | 1 | 0 | - | 0 | 0 | 1 | 0 | ||||
通算 | 日本 | J1 | 148 | 14 | 27 | 2 | 6 | 0 | 181 | 16 | |
日本 | J2 | 85 | 10 | 7 | 2 | 8 | 3 | 100 | 15 | ||
日本 | 旧JFL | 29 | 14 | - | 4 | 3 | 33 | 17 | |||
日本 | JFL | 99 | 13 | - | 6 | 2 | 105 | 15 | |||
総通算 | 361 | 51 | 34 | 4 | 24 | 8 | 421 | 63 |
その他の公式戦
- 2004年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2008年
- J1・J2入れ替え戦 1試合0得点
国際大会個人成績 | ||||
---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | |||
2004 | 横浜FM | 7 | 4 | 0 |
通算 | AFC | 4 | 0 |
その他の国際公式戦
- 2004年
- A3チャンピオンズカップ 2試合0得点
代表歴
編集- 1994年 U-19日本代表 - AFCユース選手権
- 2001年 日本代表候補
指導歴
編集監督成績
編集年度 | クラブ | 所属 | リーグ戦 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | |||
2024 | FC東京U-18 | プレミアリーグEAST | 位 | |||||
通算 | 日本 | プレミアリーグEAST | - | - | ||||
総通算 | - | - |
タイトル
編集クラブ
編集- 清水市立商業高等学校
- 高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会 : 2回 (1993年、1994年)
- 全国高等学校サッカー選手権大会 : 1回 (1993年)
- 全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会 : 1回 (1994年)
- 横浜F・マリノス
- V・ファーレン長崎
- 日本フットボールリーグ: 1回 (2012年)
代表
編集- 静岡県選抜
個人
編集- 全日本少年サッカー大会 優秀選手 (1988年)[3]
- 全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会 優秀選手 (1994年)[3]
- ジャパンフットボールリーグ 新人王 (1998年)
- ジャパンフットボールリーグ ベストイレブン (1998年)
- ナビスコカップ ニューヒーロー賞 (1999年)
- Jリーグアウォーズ 優秀選手賞 (2001年)
脚注
編集- 注釈
- ^ J2に所属する選手としては大会史上初の受賞。
- ^ 4-2-2-2から4-2-3-1へと変更。攻撃的MFが3人になったことで共存可能となった。
- 出典
- ^ a b c “PLAYER'S DATABASE”. 2007年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2007年2月13日)
- ^ a b c d おれたちが決める J2を目指すV長崎 MF佐藤由紀彦 (33) 長崎新聞 (2010年2月23日)
- ^ a b c d e f “佐藤 由紀彦選手(横浜F・マリノス)、清水エスパルスに完全移籍決定のお知らせ”. 2005年1月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 清水エスパルス (2005年1月5日)
- ^ a b c d e 佐藤由紀彦選手 現役引退のお知らせ V・ファーレン長崎 (2014年11月5日)
- ^ a b c d “Interview No.932 (1/2)”. 2003年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2003年7月16日)
- ^ a b c インタビュー / V長崎に加入した元日本代表候補・佐藤由紀彦 長崎新聞 (2009年3月2日)
- ^ 小宮,119頁
- ^ 全日本ユース(U-18)選手権 過去の決勝vol.1 ゲキサカ (2008年8月15日)
- ^ a b c d e 21世紀の骨のあるヤツ ぴあ (2000年2月22日)
- ^ a b c d e 荒川裕治『FC東京の挑戦』小学館、2001年、15-19頁。
- ^ a b 小宮,122頁
- ^ a b c d e f 後藤勝『フットボールサミット第11回 佐藤由紀彦の追憶と軌跡』カンゼン、2013年、166-176頁。
- ^ a b “元気な佐藤、ケリーと絶妙コンビ”. 2001年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 東京中日スポーツ (2001年8月23日)
- ^ a b “Interview No.837 (2/2)”. 2002年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2001年10月18日)
- ^ “クロスの精度に自信深める佐藤”. 2001年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 東京中日スポーツ (2001年8月18日)
- ^ a b 『FC東京ファンブック2002』毎日新聞社、2002年、20-21頁。
- ^ 小宮,125頁
- ^ “Interview No.837 (1/2)”. 2002年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2001年10月18日)
- ^ “佐藤由紀彦選手、福田健二選手が日本代表候補に選出される!”. 2004年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 FC東京 (2001年9月19日)
- ^ “佐藤由紀彦選手が 2001Jリーグ優秀選手賞に選ばれる!”. 2004年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 FC東京 (2001年12月2日)
- ^ “FC東京の頭脳 欧州を行く スペイン編 選手はチームだけの財産じゃない”. 2005年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 東京中日スポーツ (2005年1月19日)
- ^ “佐藤由紀彦選手 入籍のお知らせ”. 2004年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 FC東京 (2002年12月24日)
- ^ “佐藤由紀彦選手 期限付移籍決定のお知らせ”. 2004年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 FC東京 (2002年12月27日)
- ^ “Interview No.932 (2/2)”. 2003年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2003年7月16日)
- ^ 横浜F・マリノス 戦力分析レポート J's GOAL (2004年3月3日)
- ^ a b c 現役引退の佐藤由紀彦。岡崎慎司からの意外な反応 (1/5) Sportiva (2014年12月19日)
- ^ 石川と佐藤由が完全移籍 J1、横浜MとF東京 47NEWS (2003年8月7日)
- ^ “佐藤由紀彦選手 横浜F・マリノスへ完全移籍決定のお知らせ”. 2004年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 FC東京 (2003年8月7日)
- ^ “佐藤由紀彦選手、清水エスパルスへ完全移籍”. 2005年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 横浜F・マリノス (2005年1月5日)
- ^ 佐藤由紀彦選手が清水エスパルスより期限付移籍加入 柏レイソル (2006年6月18日)
- ^ 選手出場記録 (2/3) Jリーグ (2006年12月2日)
- ^ 選手出場記録 (3/3) Jリーグ (2006年12月2日
- ^ 佐藤由紀彦選手が完全移籍加入 柏レイソル (2006年12月29日)
- ^ 佐藤 由紀彦選手 ベガルタ仙台へ移籍 柏レイソル (2008年1月8日)
- ^ “佐藤由紀彦選手完全移籍加入のお知らせ”. 2008年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 ベガルタ仙台 (2008年1月8日)
- ^ 【J2:第14節 仙台 vs 山形】試合終了後の仙台選手コメント J's GOAL (2008年5月18日)
- ^ J2仙台は「FK職人」に命運託す 日刊スポーツ (2008年9月28日)
- ^ 仙台佐藤-中原ホットラインで連破/J2 日刊スポーツ (2008年5月12日)
- ^ “契約満了選手のお知らせ”. 2008年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 ベガルタ仙台 (2008年12月1日)
- ^ 佐藤由紀彦選手V・ファーレン長崎へ完全移籍のお知らせ ベガルタ仙台 (2009年3月1日)
- ^ “新加入選手のお知らせ”. 2009年3月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 V・ファーレン長崎 (2009年3月1日)
- ^ 小宮,132頁
- ^ 新主将に佐藤由「チーム一丸でJ目指す」 長崎新聞 (2010年1月28日)
- ^ 2010(平成22)年度 公認B級コーチ養成講習会 合格者 【431名】 (PDF) 日本サッカー協会 2011.04.14
- ^ 昇格逃したV・長崎。主将の佐藤由紀彦が語る「戦いは終わらない」 (2/3) Sportiva (2013年12月27日)
- ^ 13年ぶり復帰…現役引退の佐藤由紀彦氏がFC東京の普及部コーチ就任 ゲキサカ (2015年1月30日)
- ^ 佐藤由紀彦氏 FC東京普及部コーチ就任のお知らせ V・ファーレン長崎 (2015年1月30日)
- ^ a b 佐藤由紀彦選手 普及部コーチ就任のお知らせ FC東京 (2015年1月30日)
- ^ a b 選手・スタッフ一覧 U-15むさし 2018年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月14日閲覧。FC東京 (2018年7月3日)
- ^ a b 2019シーズンFC東京トップチーム編成について FC東京 (2019年1月12日)
- ^ a b “佐藤由紀彦FC東京U-18監督就任のお知らせ”. FC東京オフィシャルホームページ (2024年1月13日). 2024年1月14日閲覧。
- ^ 小宮,126-127頁
- ^ “元祖プリンス”佐藤由紀彦が現役引退 20年間のプロ生活にピリオド スポーツニッポン (2014年11月5日)
- ^ あと4日 柏レイソル (2008年6月25日)
- ^ J2で磨いた魂支えに 河北新報 (2012年9月20日)
- ^ 安永聡太郎オフィシャルブログ「報告」 2012年1月25日付
- ^ 追悼のピッチから発信された松田直樹さんの熱き魂 論スポ (2012年1月23日)
- ^ 【Jリーグ】佐藤由紀彦(V・ファーレン長崎)、親友・松田直樹を語る (4/4) Sportiva (2011年12月18日)
関連項目
編集外部リンク
編集- 佐藤由紀彦 - Soccerway.com
- 佐藤由紀彦 - FootballDatabase.eu
- 佐藤由紀彦 - WorldFootball.net
- 佐藤由紀彦 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 佐藤由紀彦 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 佐藤由紀彦 - J.League Data Siteによる選手データ
- 長崎:佐藤由紀彦が語る、街とクラブの関係「みんな絶対ながさきラヴ!やるなら、今でしょ!!」 - ウェイバックマシン(2013年6月24日アーカイブ分) - J's GOAL (2013年4月24日)
- 20年の現役生活に幕 佐藤由紀彦が残したモノ (1/3) , (2/3) , (3/3) - サッカーマガジンZONE (2014年12月3日)