佐藤玄々
1888-1963, 20世紀の彫刻家
略伝
編集福島県相馬郡中村町(現相馬市)出身、本名・清蔵。1888年宮彫り師の家に生まる。幼い頃から木彫の技術を学ぶ。1905年、17歳で「われ世界第一の彫刻家たらんと祈りき」と上京。翌年山崎朝雲に師事、1913年に朝山の号を貰い独立。30歳で結婚。大森にアトリエを構える。1914年日本美術院同人。院展に出品を続けた後、1922年(大正13年)官費留学により2年間フランスに渡り、アントワーヌ・ブールデルに師事する。
1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する[1]。その後、1937年(昭和12年)に帝国美術院が改組して帝国芸術院として発足すると改めて芸術院会員となった。
1939年(昭和14年)大日本護国会が紀元二千六百年記念行事の一環で計画した《和気清麻呂像》の制作では、朝山、北村西望、朝倉文夫の3人でコンペとなり、朝山の作品が選ばれた。しかしこの時、師・朝雲が「銅像のような大作は佐藤より朝倉さんや北村さんの方が良い」との言を聞いて朝山は憤慨し、朝山の号を返上し師弟の関係を絶った。これから1948年に玄々と号するまで、本名の清蔵で通した。1945年(昭和20年)戦争によりアトリエが全焼する。1948年(昭和23年)『老子』の一節「玄之又玄、衆妙之門」から玄々と名乗る。1949年(昭和24年)、京都妙心寺塔頭、大心院に移住、アトリエとする。戦後は日本芸術院会員。
主な作品
編集脚注
編集参考文献
編集- 磯崎康彦 『佐藤朝山と近代彫刻論』 玲風書房、2012年6月、ISBN 978-4-947666-58-1