佐藤左久
明治から大正期の箏曲家
伊予松山藩士の家系の子として伊予国松山に生まれる[1]。5歳で失明し、6歳で白勢高実(3代白勢検校)に入門[1]。左京一の名で箏曲家となる[1]。
山田流箏曲や生田流箏曲を学び[1]、長谷幸輝ら生田流の箏曲家たちとたびたび共演した[1]。箏曲の師匠として数多くの門弟を輩出し[1]、箏の手付けにも才能を発揮した[1]。1901年(明治35年)からは女子大学(現日本女子大学)の琴曲科で指導した。1915年(大正4年)大阪出向中に急逝した[1]。
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