佐藤助雄
日本の彫刻家(1919-1987)
佐藤 助雄(さとう すけお、1919年(大正8年)4月22日 - 1987年(昭和62年)10月19日)は、日本の彫刻家[2]。山形県山形市出身[2]。
佐藤 助雄 (さとう すけお) | |
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生誕 |
1919年4月22日[2] 山形県山形市[2] |
死没 |
1987年10月19日(68歳没)[2] 東京都世田谷区[2] |
国籍 | 日本 |
著名な実績 | 彫刻 |
受賞 |
文部大臣賞 1976年 地と風[2] 日本芸術院賞 1980年 振向く[2] |
選出 |
日展監事(1987年)[2] 日本彫刻会委員長(1982年)[3] |
メモリアル | 佐藤記念館[1] |
活動期間 | 昭和時代[3] |
影響を受けた 芸術家 |
仏師の父親[2][3] 後藤良[2] 北村西望[2][3] 富永直樹[2] |
影響を与えた 芸術家 |
長男佐藤良助[4] 次男佐藤敬助[4] |
来歴
編集1919年(大正8年)4月22日、仏師の父親の息子として山形県山形市に生まれる[2]。父に木彫りを学んだ後、1936年(昭和11年)上京し木彫り彫刻家後藤良の内弟子となる[2]。
1939年(昭和14年)、日本美術協会展出品作「ことり」が銅賞受賞[2]。1941年(昭和16年)、第4回新文展出品作「後庭菜果」が初入選[2]。1943年(昭和18年)、第6回新文展で「従軍看護婦」が特選受賞、政府買い上げ[2]。
戦後は塑像に転向し、山形県展などで塑像出品による受賞を重ねた後、1954年(昭和29年)以降北村西望、富永直樹などに師事する[2]。1955年(昭和30年)第11回日展出品作「布を纒ふ女」、翌1956年(昭和31年)第12回日展出品作「清立」は2年連続の特選受賞となった[2]。
1959年(昭和34年)より日展会員、1964年(昭和39年)日展評議員、1981年(昭和56年)日展理事、1987年(昭和62年)日展監事[2]。この間、しばしば日展審査員を務めた[2]。
1976年(昭和51年)第8回改組日展「地と風」が文部大臣賞を受賞[2]。1979年(昭和54年)第3回グループ絆展出品作「振向く」により第36回日本芸術院賞を受賞[2][5]。
1987年(昭和62年)10月19日、東京都世田谷区の東急世田谷線宮坂第2号踏切で自殺を図り轢死、享年68[2][6]。
主な作品
編集脚注
編集- ^ “佐藤記念館”. PORTAL TOKYO. 2016年11月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「佐藤助雄」(2015年12月14日)、2016年11月29日閲覧。
- ^ a b c d e 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus (2015年). “佐藤助雄 さとう すけお”. コトバンク. 2016年11月29日閲覧。
- ^ a b c 『現代物故者事典 2015~2017』(日外アソシエーツ、2018年)p270、 2018年10月27日 (土) 18:49 (UTC)閲覧。
- ^ “歴代授賞者一覧”. 日本芸術院. 2016年11月29日閲覧。
- ^ 朝日新聞 1987年10月19日夕刊1面
- ^ “母子像”. 秦野市 (2012年1月25日). 2016年11月29日閲覧。
- ^ “庁舎美術品” (PDF). 山形市. p. 1 (2014年4月). 2016年11月29日閲覧。
- ^ a b “平和に関するモニュメントのご紹介”. 世田谷区 (2012年7月30日). 2016年11月29日閲覧。
- ^ “世田谷公園”. 世田谷区. 2016年11月29日閲覧。
参考文献
編集- “展覧会の変遷と開催年(明治40年~現在)”. 日展. 2016年11月2日閲覧。