佐竹 義知(さたけ よしとも、生年不詳 - 文明10年(1478年))は、室町時代後期の武将。常陸国に勢力を持つ佐竹氏の一門。

生涯

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佐竹祐義の長男。父・祐義の後継として山入氏を継いだ。山入氏は常陸守護佐竹氏の一族であるが、応永年間に祖父の与義が宗家の義人と対立し、以来50年近く抗争を続けていた。

宗家当主の義治(義人の孫)は、自派に近しい一族の者を要所に配置し、衰退の色を見せていた佐竹宗家の建て直しを図るとともに、山入氏の牽制に乗り出した。これに危機感を募らせた義知は文明10年(1478年)に軍勢を率いて宗家拠点の久米城を攻め[1]、城主の久米義武(義治の弟とされるが異説もある)を討ち取った。しかしその直後から岩城氏の支援を受けた義治の反撃に晒され、義知は敗れて戦死した。

山入氏は弟の義真、次いでその子の義藤が継いだ。

出典

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  1. ^ 冨山 2017, p. 1490

参考資料

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  • 冨山章一『奥七郡から出発: 茨城・常陸佐竹氏の軌跡』学研プラス、2017年4月28日。ASIN B071RL7KLTISBN 978-4292001273