佐竹正詮
明治期の農業経営者、政治家
佐竹 正詮(さたけ まさあき、1854年12月27日(安政元年11月8日[1])- 1905年(明治38年)10月13日[1][2])は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・源蔵[1]。
経歴
編集出羽国村山郡、のちの山形県[2]西村山郡常盤村[1](西五百川村[3]を経て現朝日町大字常盤[1])で、農業、素封家・佐竹文右衛門、ハツの三男として生まれた[1]。僧・盛帖、西里村の逸見庄左衛門に師事して[1]和漢学、数学を修めた[2][3]。農業を営む[1]。
1878年(明治11年)11月、三小区常盤村、大舟木村、松程村、今平村の里正に就任[1][2][3]。以後、学務委員、連合村会議員、水利土功会議長、学区会議議長、郡役所租税事務監視員、山形県収税属、東村山郡書記、町村制度取調委員長、農事調査委員長、徴兵参事員などを務めた[1][2][3]。
1882年(明治15年)7月、山形県会議員に選出され[1][2][3]、1903年(明治36年)9月まで通算3期在任し[1]、同参事会員も務めた[1][2][3]。
1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(山形県第1区)で初当選し[4]、第4回総選挙でも再選され[5]、衆議院議員に連続2期在任した[1][2][3]。
1905年10月、胸部疾患のため自宅で死去した[1]。
国政選挙歴
編集- 第3回衆議院議員総選挙(山形県第1区、1894年3月、無所属)当選[4]
- 第4回衆議院議員総選挙(山形県第1区、1894年9月、立憲革新党)当選[5]
- 第5回衆議院議員総選挙(山形県第1区、1898年3月、無所属)落選[5]
- 第6回衆議院議員総選挙(山形県第1区、1898年8月、無所属)落選[5]
- 第7回衆議院議員総選挙(山形県郡部、1902年8月、立憲政友会)落選[6]
山形県会選挙歴
編集脚注
編集参考文献
編集- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『山形県議会歴代議員名鑑』山形県議会、1973年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。