佐竹 一雄(さたけ かずお、1925年1月28日 - 2017年3月12日[1])は、大阪府大阪市[2]出身のプロ野球選手。右投げ右打ち。パシフィック→太陽→松竹国鉄でプレイ。ポジションは捕手一塁手

佐竹 一雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市
生年月日 (1925-01-28) 1925年1月28日
没年月日 (2017-03-12) 2017年3月12日(92歳没)
身長
体重
171 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手 内野手
プロ入り 1946年
初出場 1946年
最終出場 1957年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 国鉄スワローズ (1958 - 1962)

来歴・人物

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京阪商(現:大阪府立芦間高等学校)を卒業後、宮崎県ゼロ戦の整備に従事していたが、第二次世界大戦終戦後のある日、新聞を見ていたところ、プロ野球球団・パシフィックの選手募集広告を見つけたことがきっかけで1946年にパシフィックへ入団[2]。1年目から34試合出場するも、捕手としては18試合しか出場しておらず、専ら代打として出場し37打数5安打5打点1本塁打と特に目立った活躍はしなかった。

しかし、太陽ロビンスとチーム名を変えた2年目、佐竹は正一塁手を獲得[2]。382打数81安打、打率.211ながら2年目にして初の規定打席に達すると、翌年再び捕手に戻り106試合マスクをかぶった[2]。その年の9月6日の試合でノーヒットノーランで捕手を務めた(これから佐竹は2回ノーヒットノーラン、1回完全試合の捕手を務めている、2023年現在、三度ノーヒットノーランを経験した捕手は佐竹と谷繁元信甲斐拓也しかいない。)。2リーグ分裂後の1950年松竹ロビンスに名称変更し、その年に2位の中日に9.5ゲーム差をつけ優勝。しかしこの年荒川昇治に正捕手を譲り優勝に貢献できなかった。

その翌年国鉄に移籍[2]。国鉄の移籍入団1人目である(自由契約になったばかりで、ほぼテスト入団同然だった)。佐竹は、当時国鉄が2リーグ制スタート時にできた新しい球団で選手層が薄かったため、この年いきなり99試合出場し、打撃面も自己最高となる353打数105安打、打率.297の好記録を残した。1957年引退[2]

引退後は国鉄で一軍バッテリーコーチ(1958年 - 1961年)・二軍バッテリーコーチ(1962年)、球団取締役も務めヤクルト初優勝時には球団広報を務めていた[2]

選手としては、889試合で4回も無安打無四球試合を経験。これは日本で最も多い回数である。同じく4回で1位の和田博実は長く西鉄の正捕手を務めていたが佐竹は異なった球団で経験しているので大変珍しい記録である。なお889試合という決して多くない出場数ながらのこの数字は他のキャッチャーより大変恵まれていることがわかる(野村克也は一度も経験していない)。ちなみに889試合で4回という回数は222試合に1回の確率となる。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1946 パシフィック
太陽
大陽
松竹
34 42 37 1 5 1 0 1 9 5 0 0 0 -- 5 -- 0 3 -- .135 .238 .243 .481
1947 111 421 382 24 81 17 3 0 104 6 7 3 1 -- 34 -- 3 33 -- .212 .282 .272 .554
1948 114 373 346 35 86 19 4 2 119 20 8 4 1 -- 24 -- 2 28 -- .249 .301 .344 .645
1949 53 165 156 18 44 7 2 2 61 18 3 1 1 -- 8 -- 0 8 -- .282 .317 .391 .708
1950 17 43 37 5 6 0 0 0 6 2 1 1 0 -- 6 -- 0 2 2 .162 .279 .162 .441
1951 国鉄 100 384 353 36 105 14 5 6 147 36 0 3 5 -- 25 -- 1 25 20 .297 .346 .416 .762
1952 97 346 325 27 87 16 1 1 108 24 7 2 2 -- 18 -- 1 26 8 .268 .308 .332 .640
1953 111 373 332 25 74 10 2 2 94 29 3 4 7 -- 33 -- 1 28 7 .223 .295 .283 .578
1954 80 284 258 22 75 8 2 1 90 21 1 1 5 3 17 -- 1 21 5 .291 .337 .349 .686
1955 128 452 417 28 92 12 3 3 119 35 3 0 12 1 17 1 5 40 5 .221 .260 .285 .545
1956 114 307 276 17 53 7 1 1 65 6 2 3 10 0 21 0 0 30 5 .192 .249 .236 .485
1957 73 132 120 3 12 0 0 0 12 4 1 0 6 0 6 0 0 24 4 .100 .143 .100 .243
通算:12年 1032 3322 3039 241 720 111 23 19 934 206 36 22 50 4 214 1 14 268 56 .237 .290 .307 .598
  • パシフィックは、1947年に太陽(太陽ロビンス)に、1948年に大陽(大陽ロビンス)に、1950年に松竹(松竹ロビンス)に球団名を変更

記録

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節目の記録
  • 1000試合出場:1957年7月15日 ※史上40人目

背番号

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  • 28 (1946年)
  • 23 (1947年 - 1950年)
  • 21 (1951年 - 1953年)
  • 4 (1954年 - 1958年)
  • 52 (1959年)
  • 40 (1960年 - 1962年)

脚注

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  1. ^ OB NEWS Vol.74” (PDF). 公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ) (2017年7月). 2020年6月21日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、250ページ

関連項目

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外部リンク

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