佐橋 吉久(さはせ よしひさ)は、戦国時代から江戸時代初期の武士徳川氏の家臣。

 
佐橋 吉久
時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期
生誕 天文16年(1547年[1]
死没 慶長10年(1605年[1][2]
別名 乱之助、甚兵衛[1][2]
戒名 善学、善覚[2]
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家康秀忠
氏族 佐野氏支流佐橋氏[2]
父母 父:佐橋吉忠 母:三浦元晴の娘[2]
兄弟 吉信吉実吉豊吉村吉久、男子2人[2]
筧正康の娘[2]
吉次吉堅本多貞近の妻、吉金[3]
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生涯

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佐橋氏は下野国の名族佐野氏の支族を称する家系で、足利義政より上野国舟橋を領したことから佐野舟橋を合わせた佐橋の名字を許されたことに由来するという。吉久の祖父貞恒の代に三河国額田郡下和田に移って松平氏に仕え、父吉忠松平広忠徳川家康の二代に仕えた。永禄6年(1563年三河一向一揆が蜂起すると父吉忠は本宗寺に与して松平氏に敵対する。吉久の兄弟のうち吉信吉実吉豊は一揆方に与し、吉村は松平氏に従ったが、いずれもこの戦乱で戦没している。また父もその後の合戦で討死したらしい[2]

元亀元年(1570年姉川の戦いに従軍。この戦いで本多正信が窮地に陥った際、その後退を支援したという[1][2]。元亀3年(1572年三方ヶ原の戦いでは味方の退却を助けるために奮戦し、草田町の戦いでは渡辺守綱ら7士とともに100余人の敵兵を防いだという[4][2]天正3年(1575年長篠の戦いでは武田信豊の部隊と戦う。天正7年(1579年田中城攻めで撤退する味方を支援して功があった。天正12年(1584年小牧・長久手の戦いにも従軍した。慶長5年(1600年)からは徳川秀忠に付属し、慶長8年(1603年)弓頭となる。慶長10年(1605年)秀忠が将軍宣下を受けるために上洛するとこれに従ったが、程なく滞在先の伏見において死去した[1][2]。家督は嫡男の吉次が継承し、子孫は旗本家として続いた。なお森鴎外が小説の主題とした佐橋甚五郎は甥にあたる[注釈 1][3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 吉久次兄の甚五郎吉実の子[2]

出典

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  1. ^ a b c d e 上田 et al. 2001, § 佐橋吉久.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』, p. 198.
  3. ^ a b 『寛政重修諸家譜』, pp. 198–199.
  4. ^ 上田 et al. 2001, § 佐橋乱之助.

参考文献

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  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 978-4-06-210800-3 
  • 寛政重修諸家譜』 15巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0219-2