佐多久政
佐多 久政(さた ひさまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。佐多氏10代当主。初名は忠常。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文15年(1546年) |
死没 | 天正15年3月14日(1587年4月21日) |
改名 | 忠常→久政 |
別名 | 通称:又太郎、常陸介 |
戒名 | 春岩道劫上座 |
墓所 | 鹿児島県南九州市知覧町郡の島津墓地 |
官位 | 常陸介(受領名) |
主君 | 島津貴久→義久 |
氏族 | 佐多氏 |
父母 | 父:佐多忠将 |
兄弟 | 喜入季久室、久政、久治、久宗 |
妻 | 正室:島津尚久長女 |
子 | 久慶、久作 |
生涯
編集永禄11年(1568年)、島津貴久が菱刈氏を攻める際に栗野(現在の鹿児島県姶良郡栗野)の番手を務めていたが、3月23日に菱刈氏が相良氏、渋谷氏と共に曾木城を攻めた為、城主の宮原景種を救うべく出陣し、敵数十人を討ち取ってこれを追い払った。
天正8年(1580年)、肥後国矢崎城攻めに参加しこれを攻め落とし、翌日の綱田城攻めでも敵を降参させるべく功があった。また同年11月に合志城下を放火した際に敵4,000が打ち掛かってくるが、久政らはこれを打ち崩して首級300余を上げるに至る。その後の水俣城攻め、同11年(1583年)の耳川の戦いにも軍功を上げた。しかし、天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州平定に乗り出すと、久政が守っていた田北城も攻撃を受け、奮戦するも敢え無く戦死した。墓は知覧の栄仙寺に建てられた。