佐伯幸三

1912-1972, 映画監督、脚本家。

佐伯 幸三(さえき こうぞう、1912年大正元年[1]12月4日 - 1972年昭和47年)12月27日[1][2])は、日本の映画監督脚本家である。サイレント映画の時代からキャリアを持つ。

さえき こうぞう
佐伯 幸三
生年月日 (1912-12-04) 1912年12月4日
没年月日 (1972-12-27) 1972年12月27日(60歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市芝区
(現在の東京都港区芝)
職業 映画監督脚本家
ジャンル 映画サイレント映画
活動期間 1934年 - 1967年
活動内容 1934年 大都映画で脚本家デビュー
1937年 同社で監督デビュー
1942年 同社合併により大映所属
1955年 宝塚映画
1958年 東京映画
1967年 引退
主な作品
駅前シリーズ
テンプレートを表示

人物・来歴

編集

1912年(大正元年)12月4日東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に生まれる[1][2]

旧制・早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)を中途退学した後に、内外通信社博報堂に勤める[1][2]

映画界での最初のキャリアは東京・巣鴨に撮影所を持つ大都映画で、1934年(昭和9年)、同社のオーナーの河合徳三郎の原作を脚色し、中島宝三が監督したサイレント映画『名君道中記』で脚本家としてデビューした[3]。1934年(昭和10年)、大都映画に助監督として入社[1]。1937年(昭和12年)、同社が製作したサイレント映画『浮世絵双紙』で監督としてデビューした[3][注釈 1]

1942年(昭和17年)2月、第二次世界大戦の戦時統制のため、同社が新興キネマ日活の製作部門との合併により大日本映画製作(のちの大映)となり、大映東京第二撮影所(戦後の大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所)の所属となった。翌1943年(昭和18年)、館岡謙之助田口哲が共同で脚本を書いた映画『華やかなる幻想』を同撮影所で発表した後は、戦後まで記録が途絶える[3]

 
猛獣使いの少女』(1952年)の江利チエミ

戦後、大映東京撮影所に復帰し、1947年(昭和22年)5月27日公開の高岩肇倉谷勇共同脚本の映画『鉄拳の街』で監督として復活した[3]。1951年(昭和26年)には『月から来た男』、1952年(昭和27年)には歴代4作目のリメイク『瞼の母』、『阿波狸屋敷』の3本を大映京都撮影所で撮っている[3]。同年以降、大映東京撮影所を離れ、新東宝小夜福子主演の『チョイト姐さん思い出柳』(1952年)や藤本真澄プロデュースのもと東宝森繁久彌主演の『一等社員 三等重役兄弟篇』(1953年)を撮ったりと、外に出るチャンスが増える[3]

1955年(昭和30年)、宝塚映画で、夢路いとし喜味こいしミヤコ蝶々南都雄二の出演する映画『弥次喜多漫才道中 化け姫騒動の巻』、『弥次喜多漫才道中 腰抜け一家の巻』の2作と[3]鶴田浩二寿美花代主演の『女の学校』を監督する[3]。同年、大映東京撮影所でも撮っているが、1957年(昭和32年)6月11日公開、菅原謙二若尾文子主演の『妻こそわが命』を最後に大映を完全に離れる[3][1]

1958年(昭和33年)、東京映画に招かれ、佐藤一郎プロデュース、フランキー堺淡路恵子主演の映画『ぶっつけ本番』を監督した[3]。以降、現代劇を東京映画で、時代劇を宝塚映画で撮るようになる[3]

1964年(昭和39年)、豊田四郎久松静児から「駅前シリーズ」を引き継ぎ『喜劇 駅前女将』を監督、以降、12作を手がけた[3]。1967年(昭和42年)の『喜劇 駅前満貫』を最後に[3]、同作公開の翌年、1968年(昭和43年)に病に倒れ[2]、事実上の引退となった。

1972年(昭和47年)12月27日、死去した[2]。満60歳没。

おもなフィルモグラフィ

編集

注釈

編集
  1. ^ 書籍『東宝特撮映画全史』では、昭和13年『喧嘩囃子・日本銀次』でデビューと記述している[1]

出典

編集
  1. ^ a b c d e f g 東宝特撮映画全史 1983, p. 539, 「特撮映画スタッフ名鑑」
  2. ^ a b c d e 『日本映画テレビ監督全集』、キネマ旬報社、1988年[要ページ番号]
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m #外部リンク欄、「佐伯幸三」の項リンク先、日本映画データベース、2009年10月14日閲覧。二重リンクを省く。

参考文献

編集
  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 

外部リンク

編集