会津藩の北方警備
会津藩の北方警備は、1807年(文化4年)から1809年(文化6年)にかけて、会津藩が江戸幕府によって樺太への出兵を命じられ、総勢1558名が宗谷岬や利尻島、樺太に駐留した出来事である。会津藩の樺太出兵とも呼ばれる。
東北諸藩への幕命
編集江戸時代の鎖国政策の中で、ロシア通商使節のニコライ・レザノフが実力での通商を図ろうとロシア皇帝のエカチェリーナ2世とその跡を継いだパーヴェル1世の許しなく海軍が樺太や北海道の漁村で略奪を行った(文化露寇)。そのため幕府は襲撃に備えるよう1807年(文化4年)、秋田藩・弘前藩・仙台藩などに蝦夷地への出兵と防備を命じた。
当時会津藩家老の田中玄宰は錬兵と東北諸藩に会津藩の戦力を誇示するため、幕府に会津藩の樺太出兵を内願した。1808年(文化5年)、内藤信周(内藤源助)隊長指揮の下、会津藩兵が若松城を出発、宗谷(稚内市)に本陣を置き、台場や見張り台を設置した。番頭梶原景保は利尻島本泊(もとどまり)に派遣され、さらに北原采女(北原光裕)指揮の下、樺太に上陸して本格的な警備陣営を設け、ロシア軍襲撃に備え訓練を重ねた。
出兵中の問題
編集ロシア兵はナポレオン戦争が原因で引き上げたため実際のロシア兵との交戦はなかったが、野菜が摂取できないことによるビタミン不足で水腫病にかかる兵士が多かった。これを問題視した幕府は、当時水腫病に効果があるとされたコーヒーを出兵隊に送ったという。
会津藩は1808年10月から翌年にかけて樺太から帰還した。しかし、帰路の途中に嵐に遭い船が難破、一部は離島天売島、焼尻島へ避難し、51名の死者を出した。現在、宗谷岬の北端には会津藩士の墓と句碑が建てられている。また利尻島、焼尻島にも会津藩士の墓がある。
-
利尻島のペシ岬にある会津藩士の墓。2013年7月撮影。
その後
編集この樺太出兵は、その後の間宮林蔵らの北方探検に大きく貢献する事にもなり、幕府の信頼を得た会津藩は1810年に江戸湾(現東京湾)警備を命じられる。
1957年(昭和32年)、稚内市宗谷地区の宗谷公園に、殉職した会津藩士の墓が集められ、毎年慰霊祭が行われている[1]。傍らには地元の俳人・岡崎古艸(おかざきこそう)による「たんぽぽや会津藩士の墓はここ」の句碑がある。後年には、松平勇雄福島県知事が訪れている[要出典]。
会津藩の樺太出兵を描いた絵巻『会津藩唐太出陣絵巻』が見つかっている。
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- JNN東北5社共同企画番組 200年の絆~会津藩樺太出兵(2009年3月12日放映)