伊達宗興 (一関藩嫡子)
伊達 宗興(だて むねおき)は、江戸時代前期の陸奥国一関藩の世嗣。官位は従五位下・市正。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 慶安2年(1649年) |
死没 | 元禄15年6月10日(1702年7月4日) |
戒名 | 慈徳院殿忠山実考大居士 |
墓所 | 福岡県北九州市小倉北区の安国寺 |
官位 | 従五位下・市正 |
藩 | 陸奥一関藩世嗣 |
氏族 | 伊達氏 |
父母 | 伊達宗勝、立花宗茂養女 |
兄弟 | 宗興、虎之助、兵蔵、於竹、於妻 |
妻 | 酒井忠清養女 |
子 | 千之助、千勝、右近 |
生涯
編集慶安2年(1649年)、陸奥仙台藩一門・伊達宗勝の長男として誕生した。
万治3年(1660年)8月25日、父・宗勝が仙台藩から3万石を分知されて一関藩主になると、大名の世子として寛文3年(1663年)に従五位下・市正に叙任され、翌寛文4年(1664年)には大老・酒井忠清正室の妹(姉小路公景の四女)を忠清の養女として宗興の正室に迎えている。これは、当時伊達騒動の渦中にあった仙台藩内で、宗勝と対立していた田村宗良・伊達宗重・伊達宗景らへの対抗手段を得るため、忠清との関係強化を図った宗勝の意向によるものであった。
しかし、寛文11年(1671年)にその忠清の屋敷で刃傷沙汰が発生すると、宗勝は後見役としての責任を問われ、一関藩は改易された。この時、宗興も父に連座して豊前国小倉藩主・小笠原忠雄預かりとなり、正室姉小路氏と男子3人(千之助・千勝・右近)は伊予国吉田藩主・伊達宗純(宇和島藩支藩)預かりとなった。宗興は小倉城内に与えられた屋敷で余生を送り、元禄15年(1702年)6月10日に死去した。享年54。吉田藩に預けられた妻子も同地で死去したが、父・宗勝が吉田藩立藩の折に協力的であったことから、宗純は暮らし向きに不便のないよう取り計らったという。
人物・逸話
編集系譜
編集系図
編集酒井忠清 ┣━━━━酒井忠寛 ┏━女 姉小路公景━┫ ┏伊達千之助 ┗━女 ┃ ┣━━━╋伊達千勝 伊達宗勝━━━伊達宗興 ┃ ┗伊達右近
脚注
編集- ^ 平成『仙台市史』通史編4、18-19頁
参考文献
編集- 『一関市史』第一巻(岩手県一関市、1978年)
- 平成『仙台市史』通史編4〔近世2〕(宮城県仙台市、2003年)