伊東四十八城(いとうしじゅうはちじょう)は、現在の宮崎県にあたる日向国戦国大名伊東義祐およびその後継である伊東義益の、日向伊東氏最盛期における支配域内に存在した48の外城及び名数伊東氏48塁とも呼称される[1]

概要

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伊東義祐が当主である頃は佐土原城を、義益が当主である頃は都於郡城本城として、支配域内に複数の外城・砦が存在した。伊東氏家臣・落合兼朝が記した『日向記』の「分国中城主揃事」にみえる48城が「伊東四十八城」に数えられている(『宮崎県史』に一覧が掲載されている)[2]

後に島津氏による侵略により一時的に奪われるが、豊臣秀吉の島津氏に対する九州平定で島津氏は日向から放逐され、宮崎郡などの城は、九州平定軍の先導役として功績を挙げた伊東氏伊東祐兵)に回復されて飫肥藩領となる。残りは延岡藩高鍋藩佐土原藩薩摩藩の領地などになる。

一国一城令により、藩庁になっていた飫肥城高鍋城(初め財部城)、佐土原城以外は廃城となるが、飫肥藩では清武地頭、酒谷地頭、南郷地頭などという具合に城主(城代)職は地頭として存続した地域もある。

本城及び四十八城

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以下に日向5郡別に城名を列記し、現所在地及び当時の城主も記述する。

郡名 城名 現 所在地 城主
那珂郡 佐土原城 宮崎市 佐土原町 伊東義祐。その隠居後は佐土原摂津守
那珂城 郡司弥六左衛門尉
紫波洲崎城 折生迫 川崎上総府
児湯郡 都於郡城 西都市 都於郡 伊東義益
平野城 平郡 米良民部少輔
三納城 三納 飯田肥前守
穂北城 穂北 長倉藤七
富田城 児湯郡 新富町 湯地五郎九郎
財部城 高鍋町 落合民部少輔
高城 木城町 野村蔵人佐
新納石城 長友源三郎
宮崎郡 宮崎城 宮崎市 池内町 肥田木勘解由左衛門尉
石塚城 浮田 平賀刑部少輔
曽井城 恒久 八代民部左衛門尉
清武城 清武町 長倉伴九郎上別府宮内少輔
田野城 田野町 長倉河内守
瀬平城 日南市 富土 上別府常陸守
飫肥城 飫肥 伊東祐兵
酒谷城 酒谷乙 長倉淡路守
目井城 南郷町 川崎駿河守
諸県郡 倉岡城 宮崎市 糸原 野村隠岐守
穆佐城 高岡町 落合兵部少輔
飯田城 河崎治部大輔
内山城 野村刑部少輔
木脇城 東諸県郡 国富町 福永民部四郎
本庄城 河崎兵部丞
八代城 伊東新三郎
守永城 内田四郎左衛門尉
綾城 綾町 佐土原遠江守
漆野城 小林市 野尻町 漆野志摩介
紙屋城 米良主税助
戸崎城 肥田木四郎左衛門尉
野尻城 福永丹波守
三ツ山城 細野 平良彦十郎
野首城 東方 米良筑後守。その戦死後は新納伊豆守
那佐木城 須木 肥田木三郎兵衛
須木城 米良長門守
高原城 西諸県郡 高原町 福永源左衛門尉
臼杵郡 塩見城 日向市 塩見 右松四郎左衛門尉
日知屋城 日知屋 福永新十郎
山陰城 東郷町 米良喜内
坪谷城 米良休助
門川城 東臼杵郡 門川町 米良四郎右衛門尉
水志谷城 美郷町 奈須九右衛門尉
神門城 小崎右近将監
雄八重城 米良分左衛門尉
田代城 箟尾彦三郎
入下城 入下弥四郎
高知尾城 西臼杵郡 高千穂町 三田井惟政

脚注

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  1. ^ 宮崎県教育庁文化課 1999 p.3
  2. ^ 宮崎県教育庁文化課 1999 p.4

参考文献

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関連項目

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