伊奈城(いなじょう)は、三河国宝飯郡伊奈村(現愛知県豊川市伊奈町柳)にあった日本の城。豊川市指定史跡[2]

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伊奈城
愛知県
伊奈城趾公園
伊奈城趾公園
別名 上嶋古城[1]
城郭構造 平城
天守構造 無し
築城主 本多定忠
築城年 15世紀中ごろ
主な城主 伊奈本多氏
廃城年 1590年天正18年)
遺構 曲輪土塁
指定文化財 豊川市指定史跡[2]
再建造物 模擬櫓
位置 北緯34度47分37.7秒 東経137度20分04.4秒 / 北緯34.793806度 東経137.334556度 / 34.793806; 137.334556
地図
伊奈城の位置(愛知県内)
伊奈城
伊奈城
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概要

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室町時代本多定忠本多定助によって築城された中世城館で、約150年間伊奈本多氏の居城であった。

主郭は深田の中にあり河川に囲まれ主郭周囲は土塁でめぐらされていた方形居館型の城郭[3]

徳川家家紋葵の紋」発祥ゆかりの地として知られている[注釈 1]

沿革

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15世紀中ごろ、本多定忠・定助が伊奈城を築城[4][注釈 2]

文明年間(1469年-1487年)ころ、幕府直轄領になっていた[7]

大永6年(1526年)ころ、今橋牧野氏の勢力下になっていた[7]

享禄2年(1529年)松平清康吉田城攻めの後田原城を従属。本多正忠は松平勢に参戦、清康を伊奈城に招き祝宴を開く。[8][6][7]詳細は「三河国平定」参照 
このときの逸話が「葵の紋」発祥ゆかりの地の由縁となる[9][10]

天文17年(1548年)ころ、今川氏統治下本多氏が領地回復[7]

永禄年間(1558年-1570年)大塚の岩瀬氏に攻められたが柳堤にてこれを退ける[6]

永禄6年(1563年)今川氏に伊奈城一円の確保を命じられ本地還付と新知扶助を約束[7]

永禄7年(1564年)徳川家康東三河に進出、この時本多忠次は家康に従属し功をなす[6]

天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い本多氏は下総国小篠に国替えとなり廃城。

歴代城主

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廃城後

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文化10年(1813年)膳所藩主本多家家臣黒田忠明が花ヶ池に建碑[11]

大正2年(1913年)元膳所藩藩士平田好の篤志に基づき伊奈城趾土塁上に建碑[12]

平成6年(1994年) 発掘調査実施 堀跡・逆茂木跡、礎石等の遺構などが確認された[5]

平成9年(1997年) 小坂井町(現豊川市)史跡に指定。公園として整備。

縄張り

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湿地帯(深田)に立地し主郭は三方を河川に囲まれ、周囲の土塁上に3か所の矢倉を有し、主郭内には生念台とよばれる火葬施設があった[5]
周りには腰曲輪が付属し南虎口には馬出に似た構造をもち南方の屋敷に通じる城道につながる。また、主郭周囲の河川は河口から城下まで船で行き来できたと云われている。[3][13]

遺構

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土塁

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郭跡と主郭北側の土塁が残る。
1997年(平成9年)3月3日に「花ヶ池」とともに町の史跡に指定された[2]
同年、公園整備に伴い堀・逆茂木等発掘調査で発見された遺構を模したものが配されている。
土塁上に建つ石碑は大正2年(1913年)(忠俊三百五十年忌)に元膳所藩藩士平田好の篤志に基づき建てたもの。前面は元膳所藩藩主本多康穣書。[12]

花ヶ池

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「葵の紋」発祥にまつわる城域の池。「葵ヶ池」とも呼ばれた。
平成9年(1997年)に「花ヶ池公園」(同町丸ノ内)として整備された。
池内に建つ石碑は文化10年(1813年)膳所藩主本多家家臣黒田忠明が建てたもの[11]

仲仙寺 山門

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伊奈城廃城後、城門が伊奈本多氏の菩提寺 東漸寺に移築、後年仲仙寺(同市御津町金野)に移されたと伝わる[6]

伊奈本多氏来歴

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三河国平定

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東三河攻め

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1529年享禄2年)、三河平定を推し進める松平清康徳川家康の祖父)は東三河へ進攻して吉田城豊橋市)へ迫った。伊奈城主本多正忠姻戚関係であった吉田城主牧野氏との関係を絶ち、いち早く清康の陣に参じた。夜陰に紛れて吉田川を渡り、吉田城の東門を打ち破って城内に突入し松平勢を導き入れたという。

田原攻め

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吉田城を攻略した清康は休む間もなく軍を田原城攻略へ向けた。しかし、田原城主の四代目戸田宗光は、戦わず清康の下へ降った。この時、宗光は清康の一字を貰い受けて「戸田康光」と名乗る。この田原攻めでは正忠らの本多勢が先導役を果たしたとされている。

この後、清康は吉田城へ凱旋し、東三河の諸豪族の服従を受けて、本拠地の岡崎へ戻るが、田原城から吉田城への凱旋の途中、伊奈城へ立ち寄って勝利の祝宴を開いた。その際に正忠は、城内にあった「花ヶ池」の水葵の葉にを盛って差出したという。

清康は喜悦して、

「立葵紋は正忠の家紋なり、此度の戦に正忠最初に味方となりて勝ち戦となる。吉例なり、賜らん」

と本多家の「立葵紋」を所望したという。このことにより、正忠は清康への心服の情が一層深まったとされる。

後に立葵紋は松平家の紋となり、家康の代に「三葉葵紋」となったとされる。

守山崩れ

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破竹の勢いで三河を平定した松平清康であったが、1535年天文4年)の尾張織田信秀攻めで出陣中に守山で家臣に殺害されてしまう(「守山崩れ」)。

この事により、松平氏による三河支配は瓦解して、再び三河国内は乱れてしまった。

今川義元と桶狭間

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守山崩れの後、三河国駿河遠州今川義元による版図となり、正忠は今川方の属将となる。正忠の後に、忠俊が伊奈城主を継いだ。

1560年永禄3年)、桶狭間今川義元が敗死すると、忠俊は子の光忠と共に松平元康(徳川家康)の下に参じて戦功を重ねることとなる。忠俊の後、光忠は病身であったため弟の忠次が伊奈城主となる。

再び三河国平定へ

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1564年永禄7年)、光忠と忠次は吉田城攻めを家康に進言、二連木城戸田重貞を説いて味方にするなどして活躍した。この功により伊奈城主の忠次には五千貫の地が与えられた。

忠次は酒井忠次と陣を同じくして、姉川長篠高天神城と戦い続け、戦功を重ねた。しかし、忠次には子がなかったため、同陣の酒井忠次の次男を養子で迎え、名を康俊とした。

家康関東移封と廃城

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1590年天正18年)、家康の関東移封に伴い、伊奈本多氏は先祖代々約150年間住み続けてきた伊奈城を去ることとなる。伊奈本多氏の封地は、下総国小篠郷五千石であった。伊奈城はその後、廃城となる。

その後

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1600年関ヶ原の戦い後、康俊は三河西尾城二万石の大名となった。養父忠次は西尾で没した。

1615年大坂の陣の戦功で近江膳所城三万石を拝領した。康俊の後は俊次が継いだ。俊次は後に加増再封されて七万石の藩主となる。以後十三代膳所藩主として続き、明治を迎えた。

アクセス

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鉄道

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東海旅客鉄道(JR東海)

自家用車

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周辺

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  • 花ヶ池公園(同町丸ノ内)
    • 「葵の紋」発祥にまつわる池。市指定史跡[2]
  • 東漸寺(同町縫殿)
    • 本多正時が菩提寺として開基。舞々辻にあった五輪塔等が移され伊奈城主五代の墓所として再建。[14]
  • 本多忠俊公夫妻の埋葬地(同町松間)
    • 本多忠俊夫妻の埋葬塚で「お松見」が造られる以前の墓所であったと考えられている。[15]
  • 舞々辻(まいまいつじ)墓所跡(同町舞々辻)
    • 前山神社付近に伊奈城主累代の墓所があったとされ、大正のころには消失している。当地にあった五輪塔等は東漸寺に移された。[14]
  • 若宮八幡社(同町宮坪)
    • 本多正時の時に社殿を再建、正時が植えたと伝わるイヌマキ2本(若宮八幡社のイヌマキ)が残る[16]
  • 永正寺(同町大明神)

脚注

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注釈

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  1. ^ 藩翰譜』(新井白石)の伊奈本多氏の項によると、7代松平清康吉田城ならびに田原を攻める際に、宝飯郡伊奈の本多正忠が味方し、正忠が伊奈に清康の凱旋を迎えて饗応したさいに、3つの水葵(ミズアオイ)の葉に肴を盛って出したことを清康は喜び、清康は本多家が味方したことで勝利を得たことを吉例として、本多家の家紋であった「三つ葵」を召し上げたとしている。『御先祖記』は、松平家は立ち葵を用いていたが、徳川家康永禄3年(1560年)に本多家の「三つ葉葵」を旗紋としたことで、それをはばかって本多家は立ち葵に改めた、としている。
  2. ^ 室町時代中期、本多定忠とするもの[5]、永享12年(1440年)本多定忠とするもの[6]、享徳年間(1452年-1455年)とするものなどもある。

出典

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  1. ^ 三河国二葉松
  2. ^ a b c d e 「豊川市の指定文化財」豊川市の指定・登録文化財一覧)豊川市公式HP
  3. ^ a b 『愛知県 中世城館跡調査報告3』愛知県教育委員会,1997年, P204
  4. ^ 伊奈城趾公園現地説明板『伊奈城概説』,豊川市教育委員会・伊奈史跡保存会,2024年3月閲覧
  5. ^ a b c 『伊奈城趾』小坂井町教育委員会,1995年3月
  6. ^ a b c d e 『小坂井町誌』1976年,p=162-168
  7. ^ a b c d e 『角川日本地名大辞典23愛知』地名編纂委員会,1989年,p=168.2016-2017
  8. ^ 『徳川家御紋章起源三州伊奈城』葵尋常高等小学校,明治41年7月
  9. ^ 伊奈城趾公園現地説明板『葵の紋発祥ゆかりの地』,豊川市教育委員会,2024年3月閲覧
  10. ^ 花ヶ池公園石碑『花ヶ池と葵の紋』,2024年3月閲覧
  11. ^ a b 『三河金石文字集』三河全国高等小学校長会,大正8年,p=119
  12. ^ a b 伊奈城趾石碑『吉田城趾』平田好,2024年3月閲覧
  13. ^ 伊奈城趾公園石碑『伊奈城図(東漸寺蔵)』,2024年3月閲覧
  14. ^ a b c 。『小坂井町の史跡と文化財』2000年10月
  15. ^ 現地説明板,豊川市教育委員会,2024年3月閲覧
  16. ^ 市指定天然記念物「若宮八幡社のイヌマキ」2011年8月11日指定,「豊川市の指定文化財」豊川市の指定・登録文化財一覧(令和4年2月17日現在)豊川市,2024年3月閲覧
  17. ^ 『小坂井町誌』1976年,p=756-758

関連項目

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外部リンク

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