伊号第六十潜水艦
伊号第六十潜水艦(いごうだいろくじゅうせんすいかん)は大日本帝国海軍の潜水艦。海大3b型(伊156型)の4番艦。
艦歴 | |
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計画 | 大正12年度艦艇補充計画 |
起工 | 1927年10月10日 |
進水 | 1929年4月24日 |
就役 | 1929年12月24日 |
その後 | 1942年1月17日戦没 |
除籍 | 1942年3月15日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:1,635トン 常備:1,800トン 水中:2,300トン |
全長 | 101.00m |
全幅 | 7.90m |
吃水 | 4.90m |
機関 | ズルツァー式[1]3号ディーゼル2基2軸 水上:6,800馬力 水中:1,800馬力 |
速力 | 水上:20.0kt 水中:8.0kt |
航続距離 | 水上:10ktで10,000海里 水中:3ktで60海里 |
燃料 | 重油:230t |
乗員 | 63名 |
兵装 | 40口径十一年式12cm単装砲1門 留式7.7mm機銃1挺 53cm魚雷発射管 艦首6門、艦尾2門 六年式魚雷16本 Kチューブ(水中聴音機) |
備考 | 安全潜航深度:60m |
艦歴
編集建造
編集1923年(大正12年)の大正12年度艦艇補充計画により佐世保工廠で1927年10月10日に起工。1929年4月24日に進水し、潜望鏡等の搭載を行って12月24日に竣工した。佐世保鎮守府に編入のうえ、伊63と共に第28潜水隊を編成した。
伊63との衝突
編集伊60は、1937年前期の演習に参加するため、2月2日豊後水道沖の配備地点に向かうため航進中、僚艦伊63が自艦の配備地点にいるのに気付かず、しかも伊63は艦首灯と艦尾灯をつけていたのにもかかわらず、小型船2隻の灯火と誤認し、200メートルに近付くまで前方の船が潜水艦であることに気付かなかった。そして、伊63の右舷補機室に直角に衝突した。伊63は瞬時に沈没し、艦橋にいた艦長を除く先任将校以下81名が殉職した。事故の直接の原因は伊63が、配備地点を間違えたことにあった。
1937年支那事変(日中戦争)が勃発したため、第28潜水隊は中国に派遣された。中国は旧式巡洋艦を持ってはいたが、真の目的はそうではなかった。ほとんどの艦種が派遣されていたため、潜水艦も一応参加させなければ、士気に影響すると思われたからである。
そして、ついに太平洋戦争(大東亜戦争)が始まったため伊60は、初期作戦であるマレーシア半島上陸作戦を支援した後、1942年フィリピンのミンダナオ島にある、ダバオに到着した。1月から始まる予定のインド洋通商破壊戦に参加するためであった。燃料補給後、1月9日に出撃した。
最期
編集1月16日未明、スンダ海峡南口に到着。この時の通信を最期に消息不明。
連合軍側記録によると、翌17日、アメリカの輸送艦マウント・ヴァーノン (USS Mount Vernon, AP-22)を護衛中のイギリス海軍の駆逐艦ジュピター(J級駆逐艦)のソナーにより発見され、ジュピターの爆雷攻撃を受けて潜航不能となり、浮上して12センチ砲でジュピターと壮絶な砲撃戦を交えるがついに沈没した。この戦闘では伊60もジュピターに命中弾を与えており、ジュピターでは3名が戦死している[3]。第28潜水隊司令加藤行雄大佐、艦長長谷川晙少佐以下83名が戦死し、3名が連合国側に救助されたものの、うち1名は負傷により戦死した。沈没地点は南緯06度19分 東経104度49分 / 南緯6.317度 東経104.817度のクラカタウ島北北西40km地点付近で、水深は920mあるとされる。
3月15日除籍
歴代艦長
編集※『艦長たちの軍艦史』427-428頁による。
艤装員長
編集艦長
編集- 道野清 少佐:1929年8月1日[5] - 1929年11月5日[6]
- 林清亮 少佐:1929年11月5日[6] - 1930年12月1日
- 島本久五郎 少佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
- 貴島盛次 少佐:1931年12月1日 - 1933年11月15日[7]
- (兼)舟木重利 中佐:1933年11月15日[7] - 1934年2月21日[8]
- (兼)遠藤敬勇 少佐:1934年2月21日[8] - 1934年3月2日[9]
- 貴島盛次 少佐:1934年3月2日[9] - 1934年5月10日[10]
- 後藤汎 少佐:1934年5月10日[10] - 1936年11月2日[11]
- (兼)岡本義助 少佐:1936年11月2日 - 1936年12月1日
- 大谷清教 少佐:1936年12月1日 - 1938年12月15日[12]
- 中川肇 少佐:1938年12月15日 - 1939年3月10日[13]
- 山田隆 中佐:1939年3月10日 - 1939年12月1日[14]
- 小池伊逸 少佐:1939年12月1日 - 1940年3月20日[15]
- 花房博志 少佐:1940年3月20日 - 1941年7月1日[16]
- 河野昌通 少佐:1941年7月1日 - 1941年10月31日[17]
- 長谷川晙 少佐:1941年10月31日 - 1942年1月17日戦死
脚注
編集- ^ スイス・SULZER社。英語読みではスルザー。
- ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
- ^ Christopher Langtree, The Kelly's: British J, K and N Class Destroyers of World War II, Nval Institute Press, 2002, ISBN 1-55750-422-9, p.144
- ^ 『官報』第726号、昭和4年6月3日。
- ^ a b 『官報』第778号、昭和4年8月2日。
- ^ a b 『官報』第857号、昭和4年11月6日。
- ^ a b 『官報』第2064号、昭和8年11月16日。
- ^ a b 『官報』第2141号、昭和9年2月22日。
- ^ a b 『官報』第2149号、昭和9年3月3日。
- ^ a b 『官報』第2205号、昭和9年5月11日。
- ^ 『官報』第2953号、昭和11年11月4日。
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第312号 昭和14年3月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075500
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第408号 昭和14年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077100
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第453号 昭和15年3月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第665号 昭和16年7月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第737号 昭和16年10月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082900
参考文献
編集- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。