伊予湯岡碑
日本の、かつて存在したとされる碑
伊予湯岡碑(いよのゆのおかのひ)は、かつて伊予国の道後温泉(愛媛県松山市)に存在したとされる飛鳥時代の碑。「伊予道後温湯碑(いよどうごおんとうひ)」・「伊予温湯碑」・「道後温湯碑」などとも。
碑自体は現存しないが、碑文は後世史料の引用文によって知られる。
概要
編集飛鳥時代の推古天皇4年(596年)に、道後温泉を訪れた聖徳太子(厩戸皇子)らにより建立されたと伝わる碑である[1]。碑文は古代金石文の1つになるが、原碑は早くに失われ現在は文献上でのみ知られる[2]。中国の温泉賦や温湯碑に倣い設置されたものと見られ、碑文には推古天皇期の古色が指摘される[1]。
碑の設置経緯ならびに碑文内容は『伊予国風土記』(完本は非現存)に採録され、その風土記の逸文が『釈日本紀』巻14または『万葉集註釈』巻3に収録されている。それら逸文によれば、伊予温泉(現在の道後温泉)には天皇などの行幸が5回あり、第3回目で聖徳太子が高麗僧の恵慈や葛城臣(葛城烏那羅か[2])らとともに訪れた際に太子は「湯の岡」のほとりに碑を建て、その地は「伊社邇波岡(いさにわのおか、伊佐邇波岡)」と称されるようになったとし、続けてその碑文(後述)を掲載する[1][3]。
なお、上記の「伊社邇波岡」に関連する式内社としては伊佐爾波神社(松山市桜谷町)が知られる[1]。ただし同社の現鎮座地は湯築城築城に伴い遷座したもので、遷座以前は現在の湯築城跡の地に鎮座していたという[1]。それとは別に、愛媛県松山市来住町の久米官衙遺跡群に温湯宮(石湯行宮)の存在可能性があり、それとの関連を指摘する説もある[2]。なお原碑については、天武天皇13年(684年)10月の白鳳地震で埋もれたと推測する説がある[2]。
碑文
編集注釈
- ^ 「法興」は私年号で、法興寺(飛鳥寺)建立開始年(西暦591年)を元年とし、法興6年は西暦596年になる (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
- ^ 「法王大王」は聖徳太子を指す (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
- ^ 底本では「恵忩」であるが、「恵慈」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
- ^ 底本では「万所以機」であるが、「万機所以」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
- ^ 底本では「化弱」であるが、「化羽」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
- ^ 底本では「子平」であるが、「平子」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
- ^ 底本では「吐下」であるが、「哢」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
- ^ 底本に「以」は無いが、意補 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
- ^ 底本では「与」であるが、「歟」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
脚注
編集参考文献
編集- 『新編日本古典文学全集 5 風土記(ジャパンナレッジ版)』小学館、2003年、504-510頁。
- 関晃「伊予湯岡碑」『国史大辞典』吉川弘文館。
- 「道後温泉」『日本歴史地名大系 39 愛媛県の地名』平凡社、1980年。ISBN 978-4582490398。
- 寺内浩「道後温泉」『日本古代史大辞典』大和書房、2006年。ISBN 978-4479840657。
関連項目
編集