皇貴妃任氏(こうきひ じんし、生没年不詳)は、天啓帝の側室。

経歴

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庶民の任景春の娘として生まれる。魏忠賢の養女である。

天啓4年(1624年)、容妃となった。同年10月に皇三子・朱慈炅(献懐太子)を産み、翌月に皇貴妃となった。父の任景春は従一品錦衣衛都督同知に任じられた。しかし翌年の王恭廠大爆発事件で、朱慈炅が驚死した。

崇禎17年(1644年)3月、李自成軍が皇宮に侵入すると、実家へ逃れて避難した。代には、清朝政府から手当を受けて扶養された。

懿安皇后を自称する一人の美女が皇宮で李自成軍に捕らえられ、将兵に対する性奉仕を強いられたという話がある。一説によると、その女は実は任皇貴妃といわれるが、信用できない[1]

伝記資料

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  • 『明熹宗実録』
  • 『酌中志』
  • 『清世祖実録』

脚注

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  1. ^ 賀宿『懿安后事略』、一人の明の太監(宦官)であった者の言葉という。それによると、章皇帝(順治帝)はその女を遠方から連行して賜死したが、『清世祖実録』の奏折によると当時の任皇貴妃は北京の自宅で張襄嬪らと共に暮らしていた。