今村貞雄
今村 貞雄(いまむら さだお、1905年[1] - 没年不詳)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家である。太平洋戦争開戦前は、新興キネマ東京撮影所の撮影部長[2](製作部長[1])を務め、戦後は、ドキュメンタリー映画の製作会社ラジオ映画、テレビ映画の代表を務めた[1]。
いまむら さだお 今村 貞雄 | |||||||||
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生年月日 | 1905年 | ||||||||
没年月日 | 不詳年 | ||||||||
出生地 | 日本 北海道 | ||||||||
職業 | 映画プロデューサー、映画監督、脚本家 | ||||||||
ジャンル | ドキュメンタリー映画 | ||||||||
活動期間 | 1930年代 - 1958年 | ||||||||
活動内容 |
1930年代 松竹蒲田撮影所ニュース部所属 1940年 新興キネマ東京撮影所撮影部長 1947年 ラジオ映画代表 1954年 テレビ映画代表 1957年 生物映画研究所 | ||||||||
主な作品 | |||||||||
『白い山脈』 | |||||||||
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人物・来歴
編集1930年代(昭和5年以降)に松竹蒲田撮影所ニュース部に所属し、『大満蒙 蒙古篇』等のドキュメンタリー映画を手がける。1935年(昭和10年)2月に新興キネマが東京市板橋区東大泉町(現在の東京都練馬区東大泉)に開所した新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)の所長に、ニュース部の先輩の六車修が就任し、松竹大船撮影所にいた今村を引き抜いた[2]。今村は、同撮影所の撮影部長(現在でいう製作部長)に就任[2]、ドキュメンタリー映画や現代劇の製作を手がけた。
戦後は、1947年(昭和22年)に関孝二らと目黒区柿ノ木坂町(現在の東が丘1丁目あたり)に製作会社・ラジオ映画を設立、動物ものを中心としたドキュメンタリー映画やルポルタージュものを製作した[3]。同社を1953年(昭和28年)ごろまでつづけたのち、製作会社・テレビ映画を設立、代表に就任した[1]。同社の第1回作品として、1954年(昭和29年)、佐藤武監督の『嘘』をプロデュースしている[4]。翌1955年(昭和30年)には、新東宝の大蔵貢の富士映画で、丸根賛太郎監督の劇映画『天下の若君漫遊記』をプロデュースしている。
1957年(昭和32年)、永田雅一の大映で、永田のプロデュースのもと、ドキュメンタリー映画『白い山脈』を監督し、同年の第10回カンヌ国際映画祭でパルムドールにノミネートされてコンペディション上映され、ロマンティックドキュメンタリー賞を受賞した[5]。大映の東京撮影所(現在の角川大映撮影所)に置かれた生物映画研究所に所属し、ドキュメンタリー映画を監督したが、以降の記録が不明である。
フィルモグラフィ
編集- 『大満蒙 蒙古篇』 : 松竹蒲田撮影所ニュース部、1933年 - 監修
- 『皇輝日本』 : 松竹蒲田撮影所ニュース部、1934年 - 監修
- 『病院船』 : 新興キネマ東京撮影所、1940年 - 構成
- 『玩具工場』 : 監督萩野頼三、新興キネマ東京撮影所、1940年 - 製作
- 『激流』 : 監督小石栄一、新興キネマ東京撮影所、1940年 - 製作
- 『母代』 : 監督田中重雄、新興キネマ東京撮影所、1941年 - 製作
- 『美しき本能』 : ラジオ映画 / 松竹、1949年 - 監督
- 『仔熊物語・野性のめざめ』 : 監督原千秋・小倉泰美、ラジオ映画 / 大映、1950年 - 脚本
- 『海魔陸を行く』 : 監督伊賀山正徳、ラジオ映画 / 東京映画配給、1950年 - 原作
- 『仔熊物語』 : 監督原千秋、ラジオ映画 / 大映、1951年 - 脚本
- 『花嫁蚤と戯むる』 : 監督原千秋、ラジオ映画 / 東京映画配給、1951年 - 製作
- 『裸女海底に死す』 : ラジオ映画 / 東映、1951年 - 監督
- 『嘘』 : 監督佐藤武、テレビ映画 / 新東宝、1954年 - 企画
- 『天下の若君漫遊記』前篇 変幻出没の巻・後篇 活殺自在の巻 : 監督丸根賛太郎、富士映画 / 日活、1955年 - 製作
- 『白い山脈』 : 大映東京撮影所、1957年 - 監督
- 『神秘の国インド』 : 生物映画研究所 / 大映、1958年 - 構成
- 『長い鼻』 : 生物映画研究所 / 大映、1958年 - 監督
註
編集外部リンク
編集- Sadao Imamura - IMDb
- 今村貞雄 - 日本映画データベース
- 今村貞雄 - KINENOTE
- 今村貞雄 - allcinema