人見秀三
大日本帝国陸軍軍人
人見 秀三(ひとみ しゅうぞう、1888年(明治21年)10月6日[1] - 1946年(昭和21年)4月13日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[2]
人見 秀三 | |
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生誕 |
1888年10月6日![]() |
死没 | 1946年4月13日(57歳没) |
所属組織 |
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軍歴 | 1911年 - 1945年 |
最終階級 |
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経歴
編集1888年(明治21年)に山形県で生まれた[1]。陸軍士官学校第23期卒業[1]。1937年(昭和12年)8月2日に陸軍歩兵大佐に進級[3]。同年8月22日に上海派遣軍高級副官に就任し、日中戦争に出動した[1]。同年11月22日には上海派遣軍隷下の歩兵第19連隊長に転じ[1]、南京攻略、徐州会戦を戦い、武漢攻略では瑞昌を突破し、岳陽楼に到った[1]。
1939年(昭和14年)8月1日に陸軍少将に進級し[3]、留守第2師団司令部附を経て[1]、同年12月には仙台教導学校長に就任した[1]。1940年(昭和15年)12月に南支那方面軍隷下の歩兵第107旅団長を経て[1]、1941年(昭和16年)歩兵第132旅団長に転じ[4]、南支各地を転戦[1]。1942年(昭和17年)に陸軍歩兵学校附[1]、1943年(昭和18年)3月1日に久留米第一陸軍予備士官学校長を経て[1]、同年6月10日に陸軍中将に進級[3]。同年10月29日に第12師団長に親補された[1]。掖河に駐屯する第12師団は関東軍の中でも最精鋭部隊と言われたが[1]、第10方面軍戦闘序列に編入され[1]、新竹に移駐し台湾防衛に当たる[1]。
終戦後の1946年(昭和21年)、台湾に進駐してきた国民革命軍により、4月14日の出頭を命じられる[5]。そのため、4月13日に安藤利吉第10方面軍司令官らと会食が行われることになったが、副官室で服毒自決した[6]。
脚注
編集参考文献
編集- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 伊藤禎 著『大東亜戦争責任を取って自決した陸軍将官26人列伝』展望社、2018年。ISBN 4885463513。