亮賢
亮賢(りょうけん、慶長16年(1611年) - 貞享4年3月7日(1687年4月18日))は、江戸時代前期の新義真言宗の僧。上野国の出身。
生涯
編集慶長16年(1611年)、上野国甘楽郡小野村(現・群馬県富岡市)の須藤氏に生まれる[1][2]。故郷の得成寺で出家し、大和国・長谷寺で尊慶を師として密教を修学した[1][2]。その後自らが出家した得成寺や高崎大聖護国寺の住職となった[1]。卜筮(ぼくぜい)の名声が高く、後に3代将軍徳川家光の側室となるお玉の方(後の桂昌院)を占って、5代将軍・綱吉を産むことを予言したという俗説がある[1]。天和元年(1681年)、綱吉から桂昌院の祈願寺である護国寺の開山を命じられた[1]。貞享4年(1687年)3月7日遷化[2]。
脚注
編集参考文献
編集- 飯塚, 栄斧(著)、大正大学豊山学会(編)「和尚亮賢」『豊山学報』第1号、豊山教学振興会、1954年、90-105頁、doi:10.11501/4417809、ISSN 0910-8912。(要登録)