井出政峯
江戸時代後期の武士
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 享保18年(1733年) |
死没 | 不詳 |
別名 | 通称:大吉、半兵衛 |
主君 | 徳川家重、徳川家治 |
氏族 | 井出氏 |
父母 | 父:井出延政 母:山木正信の娘 |
兄弟 | 矢部義信室 |
妻 | 三間政晴の娘、杉原守長の娘(後妻) |
子 | 井出政安、藤方朋英室、岩吉、辨次郎、主水 |
出自
編集井出政峯は、井出延政の子である。井出家(正易系)の系譜であり、血筋としては( – 正直 – 正俊 – 正信 – 正勝 – 正易 – 政武 – 延政 – 政峯)である。
略歴
編集『寛政重修諸家譜』[1](以下『寛政譜』)によると、以下のようにある。
宝歴4年(1754年)9月、初めて徳川家重に拝謁する。宝暦13年(1763年)12月に小姓組の番士となる。安永5年(1776年)4月、徳川家治の日光社参の際、これに供奉する。
天明8年(1788年)4月、56歳の時に家督を継ぐ[2]。寛政5年(1793年)8月に小姓組頭となり、同年12月には布衣を許される。
『文化武鑑』には小姓組番士時代の政峯の槍印等が描かれている[3]。また「井出半兵衛 父新三郎 二百俵 御小姓組御番衆」とあり、居住地は「牛込わか宮」とある。江戸城登城時の乗り物は駕籠とあり、家紋は「稲穂の丸に井桁」が描かれている[注釈 1]。
『徳川実紀』に「寄合井出半兵衛政峯子辨五郎政安(中略)父死して家つぐもの十四人」とあるように、家督は子の井出政安が継いだ[4]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『寛政譜』にも井出家(正易系)の家紋として「稲穂の丸に井桁」「丸に井桁」とある
出典
編集- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千百一
- ^ 続徳川実紀1 1999, p. 65.
- ^ 文化武鑑2 1981, p. 11・109.
- ^ 続徳川実紀1 1999, p. 559.