井上園子
日本のピアニスト
井上 園子(いのうえ そのこ、1915年2月22日 - 1986年1月19日)は、日本のピアニストである。
井上 園子 | |
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1950年 | |
基本情報 | |
生誕 | 1915年2月22日 |
出身地 | 日本 東京府東京市 |
死没 | 1986年1月19日(70歳没) |
学歴 | ウィーン国立音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ |
活動期間 | 1926年 - 1948年 |
レーベル | 日本コロムビア |
略歴
編集1915年2月22日、東京に生まれる。父は神田駿河台に1881年から続く井上眼科病院の第7代院長・井上達二。
6歳からカテリーナ・トドロヴィチにピアノを師事する[1][2]。入学した成蹊小学校では小林宗作に音楽を習う[3]。
1926年5月16日、東京でデビューする。この時、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番イ長調Kv.488を演奏する。
1929年、ウィーンへピアニストとして留学する。翌年、ウィーン国立音楽院に入学。エミール・フォン・ザウアーのクラスで学び、パウル・ヴァインガルテンにもピアノを師事した[2]。
1933年、ウィーン国際音楽コンクール (Internationaler Wettbewerb für Gesang und Klavierspiel in Wien) の本選に出場する。結果的にディプロマを受賞する。これは国際コンクールでの日本人として初めての本選への出場であった。ウィーン国立音楽院を卒業し、9月18日に靖国丸で神戸港へ帰国する。
1948年に健康上の理由で演奏活動を停止[4]。1951年5月31日の名古屋市公会堂、6月3日の宝塚大劇場、6月4日の京都劇場のヨーゼフ・ローゼンシュトック指揮によるNHK交響楽団の演奏会で、ピョートル・チャイコフスキー作曲『ピアノ協奏曲第1番』を演奏した[5]。1986年1月19日に東京で逝去する。
脚注
編集参考文献
編集- 『音楽の世界』1983.06 / PC版2010.01
- 松本晴子「教育者としての小林宗作の成長の過程 : 5人との出会いをとおして」『宮城学院女子大学発達科学研究』第13号、宮城学院女子大学、2013年3月31日、33-46頁、doi:10.20641/00000078、2020年3月6日閲覧。
- 柴理子「『白系ロシア人』音楽家カテリーナ・トドロヴィチの日本滞在(1)―1910年代までの足跡」『中欧研究』第2号、城西大学中欧研究所、2016年11月、1-24頁、ISSN 2432-4000、2020年3月6日閲覧。
- 萩谷由喜子『クロイツァーの肖像 日本の音楽界を育てたピアニスト』ヤマハミュージックメディア、2016年4月10日。ISBN 9784636928303。
国立国会図書館歴史的音源
編集- 『独奏:春に寄す』作曲:グリーグ(1935年12月)
- 四季より『独奏:トロイカ』作曲:チャイコフスキー(1935年12月)
- 『ピアノ独奏:土耳古行進曲』作曲:ベートーヴェン(1936年10月)
- 『ピアノ独奏:土耳古行進曲』作曲:モーツァルト(1936年10月)
- 『ピアノ独奏:春の歌』作曲:メンデルスゾーン(1936年12月)
- 『ピアノ独奏:狩の歌』作曲:メンデルスゾーン(1936年12月)
- 『ピアノ独奏:月光の曲(上)』『(下)』作曲:ベートーヴェン(1938年9月)
- 『ピアノ独奏:舞踏への勧誘(上)』『(下)』作曲:ウェーバー(1939年4月)
- 『ピアノ独奏:ワルツ』作曲:ショパン(1939年7月)
- 『ピアノ独奏:ガボット』作曲:グルック(1939年7月)
- 『ピアノ独奏:ラ・カムパネラ(上)』『(下)』作曲:リスト(1939年8月)