井上光俊
井上 光俊(いのうえ みつとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 明応9年(1500年) |
死没 | 天正3年4月6日(1575年5月15日) |
改名 | 井上光俊→井上元詳 |
別名 | 源四郎、小三郎、内蔵太夫、右衛門尉(通称) |
主君 | 毛利興元→幸松丸→元就→隆元 |
氏族 | 清和源氏頼季流 安芸井上氏 |
父母 | 父:井上勝光 |
兄弟 | 光兼、元盛、光清、光俊、光家、有景、光貞 |
子 | 元治、元直 |
生涯
編集明応9年(1500年)、毛利氏の家臣・井上勝光の四男として生まれる。
光俊は毛利興元、幸松丸、元就、隆元の四代に仕え、永正13年(1516年)5月3日の宍戸氏攻めをはじめ、永正14年(1517年)10月22日の有田中井手の戦い[注釈 1]、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけての吉田郡山城の戦いなどに参加して武功を立て、それぞれ感状を与えられた。また、天文18年(1549年)5月に元就が山口で病に伏せった時には、光俊がその看病に当たっている。
天文19年(1550年)、毛利元就の命により、甥の井上元兼をはじめとした安芸井上氏の一族30余名が誅殺されたが光俊は粛清を免れており、翌天文20年(1551年)9月4日の安芸国高屋頭崎城の平賀隆保攻めに参加して手柄を立て、元就・隆元連署の感状を与えられた。