五十嵐秀助
明治から大正時代の電信電話技術者
五十嵐 秀助(いがらし ひですけ[1]、1859年1月25日(安政5年12月22日[1])- 1933年(昭和8年)2月11日[1])は、明治から大正時代の電信電話技術者。出羽米沢(山形県)出身。
経歴
編集安政5年(1858年)、旧米沢藩士・徳間久三郎の三男として生まれる[2]。その後同藩士・五十嵐正和の養子となる。
1882年(明治15年)工部大学校電気科を卒業。工部省に入ったのち、逓信省技師に任ぜられる[2]。1887年(明治20年)東京電信學校教授になり、1889年(明治22年)、電信電話事業視察のために私費で欧米各国を歴訪[2][3]。
東京郵便電信局建築課長、東京電話交換局長、塞累逓信局工務部長などを歴任[2]。東京、横浜等の電話工事の基礎を定める[2]。
その後農商務省特許局技師および宮内省内匠寮御用掛を兼任[2](長男信一の妻セイは富永鴻の妹で、姉たちは農商務省特許局長、宮内省侍医の妻[3])。東宮御所(1909年)の電気工事の設計を担当[2]。
栄典
編集脚注
編集参考文献
編集- (PDF)工学博士五十嵐秀助氏 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 鈴木博之監修、内匠寮の人と作品刊行委員会編『皇室建築 内匠寮の人と作品』建築画報社、2005年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。