于頎
経歴
編集済王府倉曹の于庭謂の子として生まれた。若くして官吏の事務に熟達していることで知られ、官を歴任して京兆府士曹に任じられた[3][2]。乾元2年(759年)、史翽が襄州刺史・山南東道節度として出向する[4]と、于頎は御史となり、判官をつとめた[5][2]。乾元3年(760年)、史翽が襄州の反乱兵により殺害される[6]と、于頎はその遺体を収容して葬った[5][2]。
度支使の第五琦が河東租庸使となると、于頎は鳳翔少尹・度支郎中・兼御史中丞・転運租庸糧料塩鉄等使に任じられた。汴州が頻繁に兵乱に遭遇して銭帛を失っていたことから、于頎は転運汴州院を河陰に移すよう上奏した。元載が諸道営田使となると、于頎はその下で郎官をつとめ、東都洛陽や汝州で屯田を開いた。戸部侍郎・秘書少監・京兆尹・太府卿を歴任した[5][2]。大暦8年(773年)[7]、杜済に代わって京兆尹となった[5][2]。
元載が失脚すると、于頎は鄭州刺史として出向した。建中2年(781年)、河南尹に転じたが、統治の成績が悪く召還された。ときに汾州刺史の劉暹が御史大夫となることが予定されていたが、宰相の盧杞は剛直な劉暹が御史大夫となることを恐れ、柔弱でくみしやすい于頎を御史大夫に推薦した。建中4年(783年)、于頎は徳宗につき従って奉天に赴き、左散騎常侍の位を受けた。左千牛上将軍を経て、大理卿・太子少保・工部尚書に転じた。入朝して地に倒れ、金吾仗衛に助け起こされたため、太子少師に転じて致仕した[5][2]。貞元15年(799年)3月辛未、死去した[8]。享年は74[5]。
脚注
編集伝記資料
編集参考文献
編集- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6。