二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)とは、建武の中興で官僚として活躍した人物(太田時連?)が記録した『建武年間記(建武記)』に収録されている文である。88節に渡り、建武の中興当時の混沌とした世相を風刺した七五調の文書。専門家の間でも最高傑作と評価される落書の一つである。建武政権への批判を中心に、連歌・田楽・茶寄合・禅宗・律宗なども含め、当時生まれあった混沌とした風習・文化を風刺したものである。建武元年(1334年)8月成立(建武2年成立を主張する研究者もいる)。
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此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨
召人 早馬 虚騒動
生頸 還俗 自由出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛
追従 讒人 禅律僧 下克上スル成出者
器用ノ堪否沙汰モナク モルル人ナキ決断所
キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ杓持テ 内裏マシワリ珍シヤ
賢者カホナル伝奏ハ 我モ/\トミユレトモ
巧ナリケル詐ハ ヲロカナルニヤヲトルラム
為中美物[注釈 1]ニアキミチテ マナ板烏帽子ユカメツヽ 気色メキタル京侍
タソカレ時ニ成ヌレハ ウカレテアリク色好 イクソハクソヤ数不知 内裏ヲカミト名付タル
人ノ妻鞆ノウカレメハ ヨソノミル目モ心地アシ
尾羽ヲレユカムヱセ小鷹 手コトニ誰モスヱタレト 鳥トル事ハ更ニナシ
鉛作ノオホ刀 太刀ヨリオホキニコシラヘテ 前サカリニソ指ホラス
ハサラ扇[注釈 2]ノ五骨 ヒロコシヤセ馬薄小袖
日銭ノ質ノ古具足 関東武士ノカコ出仕
下衆上臈ノキハモナク 大口ニキル美精好[注釈 3]
鎧直垂猶不捨 弓モ引ヱヌ犬追物
落馬矢数ニマサリタリ 誰ヲ師匠トナケレトモ
遍ハヤル小笠懸 事新キ風情也
京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌
在々所々ノ歌連歌 点者ニナラヌ人ソナキ
譜第非成ノ差別ナク 自由狼藉ノ世界也
犬田楽ハ関東ノ ホロフル物ト云ナカラ 田楽ハナヲハヤル也
茶香十炷[注釈 4]ノ寄合モ 鎌倉釣ニ有鹿ト 都ハイトヽ倍増ス
町コトニ立篝屋ハ 荒涼五間板三枚
幕引マワス役所鞆 其数シラス満々リ
諸人ノ敷地不定 半作ノ家是多シ
去年火災ノ空地共 クソ福ニコソナリニケレ
適ノコル家々ハ 点定セラレテ置去ヌ
非職ノ兵仗ハヤリツヽ 路次ノ礼儀辻々ハナシ
花山桃林サヒシクテ 牛馬華洛ニ遍満ス
四夷ヲシツメシ鎌倉ノ 右大将家ノ掟ヨリ 只品有シ武士モミナ ナメンタラニソ今ハナル
朝ニ牛馬ヲ飼ナカラ 夕ニ賞アル功臣ハ 左右ニオヨハヌ事ソカシ
サセル忠功ナケレトモ 過分ノ昇進スルモアリ 定テ損ソアルラント 仰テ信ヲトルハカリ
天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマ/\ノ 事ヲミキクゾ不思議ナル
京童ノ口スサミ 十分ノ一ヲモラスナリ
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「二条河原の落書」の成立時期について、原書の『』には「去年八月」とあるだけで、具体的な年は示されていない。『建武記』書写の過程で付けられたと思われる古注は、「元年歟」(「建武元年(1334年)だろうか?」)としている。古くから用いられてきた伝統的な史料(『大日本史料』6編1冊(明治34年(1901年)など)は、古注の建武元年説を採用している[2]。
しかし、森茂暁は、下の3点を指摘し、「二条河原の落書」の成立は建武2年8月のことであると論じた。
- 「器用ノ堪否(かんぷ)沙汰モナク モルル人ナキ決断所」と、建武元年8月に雑訴決断所が拡充されてから、「しばらく経って様々な沙汰(判決)が出た後」の混乱の様子が描かれており、同じ月に成立したとは思えない。
- 「賢者カホナル伝奏ハ 我モ我モトミユレトモ」と、建武2年3月17日に伝奏結番(けちばん、当番の日と規則)が決定された事実を踏まえたかのような風刺がある。
- 『建武記』内部での配列の順序(雑多な記録がおおよそ成立年代順に並べられている)からして、この箇所は建武3年の成立と考えられるから、建武3年から見た「去年」とは建武2年である。
- ^ 田舎から入ってくる美味しい料理・食べ物。
- ^ 粗放な風流絵を描いた派手な扇
- ^ 大口(下袴の一種)に精好地を用いること。この大口を上の袴を省略して着ることを「ばさら姿」と呼んでいた。
- ^ 十種類の茶を飲んで銘柄を当てる「十種茶」と、十種の香を聞いて銘柄を当てる「十種十炷」を掛けたもの。