二条冬実
二条 冬実(にじょう ふゆざね)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿。関白・二条教基の子。官位は従一位・関白、左大臣。河内国玉櫛荘(大阪府東大阪市)を本拠とし、玉櫛(たまくし)と号する[2]。父祖と同様、南朝に仕えた。
時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
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生誕 | 正平8年/文和2年(1353年) |
死没 | 応永25年12月23日(1419年1月19日) |
改名 | 長■?→冬実 |
別名 | 玉櫛殿、玉櫛禅門 |
官位 | 従一位、関白、左大臣(南朝)[1] |
主君 | 後村上天皇→長慶天皇→後亀山天皇 |
氏族 | 二条家 |
父母 | 父:二条教基 |
妻 | 泰子内親王? |
子 | 良教、尊性房、恵芳、明元、女子 |
経歴
編集南朝の補任記録が残されていないために官歴は不明の点が多いが[3]、中納言・中将から左近衛大将に転任し、弘和元年/永徳元年(1381年)12月には右大臣として見任。元中元年/至徳元年(1384年)6月までに叔父・教頼から関白職を譲られたと考えられ[4](前年冬の後亀山天皇践祚に伴うものか)、最終的に従一位・左大臣に至った。関白を辞職して後、元中9年/明徳3年(1392年)閏10月に南北朝合一を迎えたが、天皇や他の廷臣と共に入洛した形跡はない。ただ、応永3年(1396年)正月の叙位の際、「自南方出京、号玉櫛人息」である良教が太閤・二条師嗣の猶子となって、その推挙を受けていることから[5]、この時には既に在京していたようである。
以後しばらくの動向については史料を欠くが、晩年は出家して玉櫛禅門と号し、伏見宮の栄仁親王や貞成親王との親交を深め、親王主催の茶会・連歌などにたびたび参加していたことが『看聞日記』に見える。なお、同日記の応永24年(1417年)2月8日条によると、これより前に醍醐と山科との郷民の間で確執があったため、醍醐から帰る途中の冬実が巻き込まれ、山科の郷民らに一時拉致される事件が起こった。この年の秋から病気がちとなり、翌応永25年(1418年)12月23日に薨去。享年66。京都では割合に静かな後半生を過ごすことが出来たのであろう。貞成親王は冬実の人柄について「心操穏便、酒盛殊有其興人也」と評し、その死を惜しんでいる。
南朝歌壇においては、自邸で百首歌を催した他、「入道前関白家百首歌」に詠進し、准勅撰集『新葉和歌集』には「右大臣」として5首が入集する。
系譜
編集子女については、『尊卑分脈』『系図纂要』には何ら記すところがないが、『看聞日記』などによって二男三女の存在を確認し得る。
脚注
編集- ^ 東京大学史料編纂所蔵・[[大乗院 (門跡寺院)|]]伝来の『摂家系図』二条殿流には、冬実の袖書に「南朝関白、左大臣、従一位」とある。
- ^ 「玉櫛」とは、冬実個人の号ではなく、南朝二条家(師基―教基―冬実)一門の家名であったらしい(『大乗院日記目録』延文5年5月8日条)。
- ^ 『南朝公卿補任』によれば、冬実の官歴は以下のとおりだが、年齢を始めとして根本史料との乖離が大きく、とても信用し得る内容ではない。
元弘2年/正慶元年(1332年)生誕、正平3年(1348年)従三位(左中将如元)、同7年(1352年)正三位、同10年(1355年)権中納言、同11年(1356年)従二位、同14年(1359年)権大納言、同15年(1360年)左大将、同16年(1361年)正二位、同17年(1362年)右大臣、同19年(1364年)左大臣従一位、同24年(1369年)関白氏長者。 - ^ 二条家本『玉葉』承安5年夏記の奥書に「元中元年六月八日進一見了、/関白長〔ママ〕」と見える。この長■(なが―)は下1字が不明であり、南朝二条家の中に該当する人名を見出せないが、系譜を調べると、冬実こそが長■に相当する人物として考えられる。おそらく長■は初名で、後に冬実と改名したのであろう。
- ^ 『経嗣公記』同年正月5日条