二日市温泉 (筑紫野市)

福岡県筑紫野市にある温泉

二日市温泉(ふつかいちおんせん)は、福岡県筑紫野市湯町にある温泉。「博多の奥座敷」ともいわれ、旅館・ホテル、共同浴場(博多湯、御前湯)、日帰り温泉施設がある[1]

二日市温泉
二日市温泉の中心付近にある御前湯
温泉情報
所在地 福岡県筑紫野市
座標 北緯33度29分29.1秒 東経130度30分55.4秒 / 北緯33.491417度 東経130.515389度 / 33.491417; 130.515389座標: 北緯33度29分29.1秒 東経130度30分55.4秒 / 北緯33.491417度 東経130.515389度 / 33.491417; 130.515389
交通 JR:鹿児島本線二日市駅より徒歩約10分
西鉄:天神大牟田線太宰府線西鉄二日市駅から西鉄バスで約10分
車:九州自動車道筑紫野ICから5分
泉質 放射能泉
宿泊施設数 7
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泉質

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歴史

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古くから温泉が湧く地として知られていた。武蔵寺の縁起にある開湯伝説によれば、藤原鎌足の子孫とされる藤原虎麿(登羅麻呂)が武蔵寺薬師如来に娘の病気治癒を祈願した際、夢のお告げで温泉を発見したという[2]。また、大宰帥・大伴旅人の詠んだ歌(後述)に「次田温泉」「湯の原」とあるのが二日市温泉と言われている[3]

古くは「次田(すいた)の湯」、「薬師温泉」、近世以降は「武蔵温泉」と呼ばれた。江戸時代に筑前藩の温泉奉行が置かれ、藩主黒田氏専用の「御前湯」があった。

明治以降、御前湯は一般の共同浴場になった。九州鉄道(現鹿児島線)の二日市駅が1889年(明治22年)に開業し、博多に近い当地には湯治客や観光客が多く訪れるようになった。1896年(明治29年)には夏目漱石が新婚旅行に訪れている。昭和初期には大小20数軒の旅館があった[4]。戦前から戦後にかけて歓楽街としても栄え[5]、芸妓置屋も存在した。 火野葦平の小説『花と竜』には主人公の金五郎(若松港の石炭沖仲士)が武蔵温泉へ出掛け、お京という壺振りの女と運命的な出会いをする場面がある[6]

終戦後の1949年(昭和24年)5月、昭和天皇九州巡幸で当地を訪れ、大丸別荘に2泊した[7]。巡幸を機に翌1950年、「二日市温泉」と改称した[8]

地理

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博多湯
 
二日市温泉を貫通する福岡県道7号(二日市温泉入口交差点付近より撮影)

当地は大宰府政庁の南方に位置する。四神相応でいう大宰府朱雀(平安京における巨椋池の如く)に比定する説もあるが、『太宰府発見』の著者・森弘子は否定している[9]

JR二日市駅南西の県道7号沿いに温泉街がある。1889年の開業以来、二日市駅の出入口は温泉の反対側にあたる東側のみだった。そのため「二日市温泉」の看板なども東口にある。2022年12月に西口が開設された。

かつては温泉街の中心を鷲田川が流れ、川の両側(直線距離で300mほど)に宿屋が並び、共同の川湯[10]があった。1932年(昭和7年)7月の大水害で川湯が決壊[11]。その後の復旧工事で暗渠化されて県道7号の一部となっている。

二日市温泉を詠んだ作品

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御前湯の夏目漱石句碑

大伴旅人大宰府赴任時に妻を亡くした。妻を偲んで「次田温泉」で詠んだ万葉集6巻の収録歌[12]

帥大伴卿、次田温泉(すぎたのゆ)に宿りて、鶴(たづ)の喧(な)くを聞きて作れる歌一首
湯の原に鳴く蘆鶴(あしたづ)は吾が如く妹に恋ふれや時わかず鳴く

幕末に京都を追放され(七卿落ち)、後に太宰府に移された三条実美が当地を訪れ、詠んだ歌[13]

ゆのはらに あそふあしたつ こととはむ なれこそしらめ ちよのいにしへ

夏目漱石が「二日市温泉」で詠んだ句[14]

温泉(ゆ)の町や踊ると見えてさんざめく

アクセス

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脚注

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  1. ^ 筑紫野市観光協会の公式サイトに掲載の旅館・ホテル[1]は、大観荘、アイビーホテル筑紫野、パープルホテル二日市、松原旅館、扇屋旅館、ビジネスホテル舞鶴荘の6軒。他に大丸別荘がある。(2023年10月現在)
  2. ^ 『筑紫野市史 民俗編』p112。
  3. ^ 『筑紫野市史 民俗編』p112。
  4. ^ 日本旅行協会『温泉案内』(1927年)pp209-210。食事を提供しない木賃宿15軒を含む。
  5. ^ 鉄道省『日本案内記 九州篇』(1935年)p122に「脂粉の香と絃歌の漂ふ遊楽境」とある。
  6. ^ 『火野葦平選集 第5巻』(東京創元社、1958年)p97以下。
  7. ^ 宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍、2017年)pp825-829。
  8. ^ 『筑紫野市史 下巻』p1258。
  9. ^ 森弘子『太宰府発見』(海鳥社、2003年、ISBN 4-87415-422-0)p102。南の水を朱雀とする説は古代中国の文献に見えず、後世の説である。
  10. ^ 梯子で鷲田川へ降りると湯船が5つあった。それぞれ6畳ほどの広さの浴場で、湯番がおり、脱衣所があった。地元の農家や地権者は無料で入れたという。『筑紫野市史 民俗編』p113。
  11. ^ 『筑紫野市史 年表』
  12. ^ 佐佐木信綱編『新訓万葉集 上巻』 (岩波文庫、1927年)、p234[2]
  13. ^ 筑紫野市「歌碑・句碑を歩く」[3]
  14. ^ 『漱石全集 第14巻』(岩波書店、1936年)[4]

参考文献

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  • 筑紫野市『筑紫野市史 下巻』、『筑紫野市史 民俗編』、『筑紫野市史 年表』(いずれも1999年)
  • 浦辺登『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年、ISBN 978-4-86329-026-6 - 同書p38に大伴旅人の和歌、『花と龍』、御前湯などの簡単な記述あり。
  • 歌のなかの二日市温泉」(PDF)『ちくしの散歩』第79号、筑紫野市教育委員会、2001年3月31日、2023年1月30日閲覧