二宮敬作
二宮 敬作(にのみや けいさく、文化元年5月10日(1804年6月17日) - 文久2年3月12日(1862年4月10日))は、江戸時代後期の蘭学者・医学者。日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られる。
生涯
編集文化元年(1804年)、伊予国宇和郡磯崎浦(現・愛媛県八幡浜市保内町磯崎)に生まれる。
文政2年(1819年)、医師を志し長崎へ留学。吉雄権之助や美馬順三に師事し、蘭語・蘭方医学を学んだ後、文政6年(1823年)、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの門弟となり鳴滝塾で学ぶ。文政9年(1826年)、シーボルトの江戸行きに同行し、測量器(水銀気圧計と推察される)を用いて富士山の高度を日本で初めて測量した(シーボルトの母国の恩師への報告によると測量結果は4982mである(『江戸参府紀行』東洋文庫 - シーボルト著))。また、シーボルト著の『日本植物誌』(Flora Japonica)によると、敬作が九州の高山から採取した植物にシーボルトが「ケイサキイアワモチ」(Corylopsis Kesakii)と命名したとされる。
ところが、文政11年(1828年)にシーボルト事件が起き、シーボルトは長崎を去るが、敬作は弟子の高良斉(こうりょうさい)とともに漁師に変装して小舟に乗り、シーボルトを見送ったという。この際に、シーボルトの娘イネの養育を託された。その後、敬作は事件に連座し、半年の入獄ののち、江戸立ち入り禁止され長崎からも追放され、故郷・磯崎に戻った。
天保元年(1833年)、宇和郡卯之町で町医者となり、イネを呼び寄せ養育する。安政5年(1858年)に再び長崎へと赴き、開業医となった。なお、その後敬作が故郷へ帰ることはなかった。
安政6年(1859年)、長崎に再来日したシーボルトと再会した。産科医を開業している娘イネをみて、敬作の義侠に感涙したという。江戸に赴くシーボルトに同行するつもりであったが、病に倒れ果たせなかった。
文久2年(1862年)、長崎にて死去。享年59。墓は長崎の寺町の皓台寺。大正13年(1924年)、正五位を追贈された[1]。
人物
編集備考
編集脚注
編集- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.51