乙塚古墳(おとづかこふん)は、岐阜県土岐市泉町久尻にある古墳。形状は方墳。付近の段尻巻古墳と合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「乙塚古墳 附 段尻巻古墳」)。

乙塚古墳

墳丘・石室開口部
所在地 岐阜県土岐市泉町久尻1332(字勝負)ほか
位置 北緯35度21分55.93秒 東経137度10分51.35秒 / 北緯35.3655361度 東経137.1809306度 / 35.3655361; 137.1809306座標: 北緯35度21分55.93秒 東経137度10分51.35秒 / 北緯35.3655361度 東経137.1809306度 / 35.3655361; 137.1809306
形状 方墳
規模 一辺27.4m×26.1m
高さ5.8m
埋葬施設 両袖式横穴式石室
出土品 鉄製品・須恵器土師器
築造時期 7世紀前半
史跡 国の史跡「乙塚古墳 附 段尻巻古墳」
地図
乙塚古墳の位置(岐阜県内)
乙塚古墳
乙塚古墳
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概要

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段尻巻古墳(左)・乙塚古墳(右奥)

岐阜県南東部、土岐川北岸の河岸段丘縁辺部(標高約150メートル)に築造された大型方墳である。地元では八坂入彦命(第10代崇神天皇皇子)の娘の弟姫の墓として伝承される。2002年度(平成14年度)以降に発掘調査が実施されている。

墳形は方形で(平成14年測量調査以前は円形とされた)、南北27.4メートル・東西26.1メートル・残存高さ5.8メートルを測る。墳丘外表で段築・葺石は認められていない。また墳丘周囲で周溝は認められていない。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南南東方向に開口する。石室全長19.2メートルを測り、美濃地方では最大級の規模の大型石室として注目される。石室内の副葬品のほとんどは失われており、鉄製品片・須恵器片(鳥形のつまみが付いた装飾付須恵器含む)・土師器片がわずかに検出されている。

築造時期は、古墳時代終末期7世紀前半頃の築造と推定され、段尻巻古墳とはほぼ同時期の築造とされる。東美濃地域では代表的な大型古墳であり、当時の刀支評(土岐郡)を治めた有力首長の墓と想定される[1]。方墳の採用には畿内ヤマト王権との関わりが示唆され、ヤマト王権による地方の領域再編・支配の実態を考察するうえで重要視される古墳になる[1]

古墳域は1938年昭和13年)に国の史跡に指定されている(指定名称は「乙塚古墳 附 段尻巻古墳」)。現在は史跡整備のうえで公開されているが、石室内への立ち入りは制限され、毎月第2日曜日に公開されている。

遺跡歴

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  • 安土桃山時代-江戸時代、陶工によって工房等として再利用。
  • 江戸時代、陶祖神・山神を祀る場として信仰(天保5年(1834年)に陶祖神石祠の建立)。
  • 明治初年、塚の南に所在した乙塚庵が廃寺(昭和3年の小川栄一報告)。
  • 1927年昭和2年)、文献上初見[2]
  • 1928年(昭和3年)、小川栄一による報告[2]
  • 1938年(昭和13年)12月14日、国の史跡に指定(指定名称は「乙塚古墳 附 段尻巻古墳」)[3]
  • 2002年平成14年)、測量調査。方墳と確認。
  • 2002-2005年度(平成14-17年度)、保存目的の発掘調査:乙塚・段尻巻第1-4次調査(土岐市教育委員会・土岐市埋蔵文化財センター、2007年に報告)。
  • 2014-2015年度(平成26-27年度)、史跡整備に伴う確認調査:乙塚・段尻巻第5-6次調査(土岐市教育委員会・土岐市文化振興事業団、2017年に報告書刊行)[2]
  • 2017年(平成29年)10月13日、史跡範囲の追加指定[3]
  • 2018-2021年度(平成30-令和3年度)、史跡整備に伴う確認調査:乙塚・段尻巻第7-9次調査(土岐市教育委員会・土岐市文化振興事業団、2023年に報告書刊行)[4]
  • 2019-2023年(令和元-5年)、史跡整備。

埋葬施設

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石室俯瞰図
 
石室展開図

埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南南東方向に開口する。石室の規模は次の通り[1]

  • 石室全長:19.2メートル
  • 玄室:長さ5.1メートル、幅1.9-2.7メートル、高さ2.7-3.0メートル
  • 羨道:長さ5.4メートル、幅2.3-2.6メートル、高さ2.4-2.7メートル
  • 前庭部:長さ8.1メートル、幅2.6-4.2メートル

石室の石材は、主に近辺で産出する花崗岩の割石で、間詰石・礫床にはチャートを使用する。玄室の平面形は胴張形。奥壁は巨石1枚の上に小石材を詰め、側壁は3段積みである。玄門部はまぐさ石・立柱石によって構築される。床面は玄室の一部で礫床が検出されており(現在は本来の床面よりも20センチメートル程度上面で復元)、羨道から前庭部では小礫を詰めた排水溝が認められる。天井石は、玄室では3枚、羨道では4枚[1]

石室内の副葬品のほとんどは失われており、発掘調査では鉄製品片・須恵器片・土師器片がわずかに検出されている。特に須恵器のうちでは、鳥形のつまみ(鳥鈕蓋)が付いた装飾付須恵器が出土例の少ないものとして注目される[1]

文化財

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国の史跡

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  • 乙塚古墳 附 段尻巻古墳 - 1938年(昭和13年)12月14日指定、2017年(平成29年)10月13日に史跡範囲の追加指定[3]

関連施設

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脚注

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参考文献

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(記事執筆に使用した文献)

  • 地方自治体発行
  • 事典類
    • 小林三郎「乙塚古墳」『日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607 
    • 「乙塚古墳」『岐阜県の地名』平凡社日本歴史地名大系21〉、1989年。ISBN 4582490212 

関連文献

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(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『土岐市史』 第3巻(近代社会・土岐市の文化財)下、土岐市、1974年。 
  • 『平成16・17・18年度 土岐市市内遺跡発掘調査報告書 -乙塚古墳・段尻巻古墳・熊野神社3号墳範囲確認調査』土岐市教育委員会・財団法人土岐市埋蔵文化財センター、2007年。 
  • 牛丸岳彦「乙塚古墳と段尻巻古墳について -岐阜県土岐市所在の二古墳の調査-」『専修考古学』第6号、専修大学考古学会、1996年10月28日、59-65頁。 

関連項目

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外部リンク

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