久松 三津枝(ひさまつ みつえ、1914年9月13日 - 1947年8月13日)は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6]。本名上松 美津江(うえまつ みつえ)、旧芸名久松 美津江(ひさまつ みつえ)のほか、別名・表記の揺れがある(#芸名[1][2][3][4][6]。全国公募から選ばれ、深水藤子とならぶ日活スター女優として登場、サイレント映画末期からトーキー初期にかけて人気があった[2][3][7][8]

ひさまつ みつえ
久松 三津枝
久松 三津枝
久松三津枝(左)『長崎留学生』スチール写真(1935年)より
本名 上松 美津江 (うえまつ みつえ)
別名義 久松 美津江 (ひさまつ みつえ)
久松 三津江 (同上)
生年月日 (1914-09-13) 1914年9月13日
没年月日 (1947-08-13) 1947年8月13日(32歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草地区
職業 女優
ジャンル 劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1933年 - 1941年
主な作品
野崎小唄
瀧の白糸
浮名ざんげ
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略歴

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人物・来歴

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1914年大正3年)9月13日東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草地区)に生まれる[1]。出生名については、「美津江」であるとする説[1][2]と「三津枝」であるとする説がある[2]

1931年(昭和6年)3月、麹町区中六番町(現在の千代田区四番町)にあった旧制・千代田高等女学校(現在の武蔵野大学附属千代田高等学院)を卒業後、翌1932年(昭和7年)、前年の労働争議の後で日活の行った大規模な新人募集に応募して、2,000人を超えるなかから採用が決まり、同年秋に京都に移動して日活太秦撮影所に入社する[1][2][3][7]。このときの同期入社には、大谷日出夫、深水藤子、松平不二也(のちの新田実)であった[3][7]。1933年(昭和8年)1月14日に公開された山路ふみ子主演、畑本秋一監督の『己ヶ罪 環』に「久松 美津江」の芸名で出演し、満18歳で映画界にデビューした[1][4]。同年9月30日に公開された熊谷久虎春原政久共同監督による『青春の頃』では谷幹一とともに主演した[1][4]

1934年(昭和9年)、同撮影所の現代劇部が、東京に新設された日活多摩川撮影所に移転するとともに異動し、久松が主演した熊谷久虎監督の『三家庭』は新撮影所で製作され、同年6月28日に公開された[1][4]。同撮影所では1作限りで、同年、新興キネマに移籍して京都に戻り、「久松 三津枝」と表記を改めた[1][4]。1935年(昭和10年)5月1日に公開された野淵昶監督の『長崎留学生』で初めてトーキー(土橋式)に出演したが、以降も同社ではサウンド版への出演がつづいた[4]。1936年(昭和11年)3月10日に公開された木村恵吾監督のサウンド版『野崎小唄』での男装が話題になる[2][3]。同年5月8日に公開された押本七之輔監督の『逢はずの四郎蔵』に出演したのを最後に新興キネマを退社[1][4]、東京に戻って「久松 三津江」の名で大都映画で舞台実演等をしていたが[8]、京都にまた戻り、片岡千恵蔵プロダクション松竹太秦撮影所等の映画にフリーランス的に出演していた時期が半年ほどあった[4][5]

遡って1935年12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、久松はこの翌年に同社に第二期入社、以降芸名は新興キネマ時代の「久松 三津枝」に戻した[1][4][9]。1937年(昭和12年)2月18日に公開された広瀬五郎監督の『瀧の白糸』で主演したが、同社は同年4月に解散しており、最終作品として製作されたがのちに日活が配給して公開された牧陶六(マキノ正博)監督の『遊侠太平記』にも出演、澤村國太郎の相手役を務めた[4][9]。同社解散後、葉山純之輔大内弘ら大半は新興キネマへ移籍したが、久松は戻らず、松竹下加茂撮影所に移籍した[1][4][9]。同社では、同年9月16日に公開された大曾根辰夫監督の『次郎吉唄ざんげ』では高田浩吉、翌1938年(昭和13年)3月3日に公開された、東海林太郎の主題歌で知られる冬島泰三監督の『浮名ざんげ』では坂東好太郎の相手役を務め好評を得たが[2][3]、1940年(昭和15年)には同社を退社した[1][4]

再度東京に戻り、東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)に入社、1941年(昭和16年)4月9日に公開された石田民三監督の『をり鶴七変化 前篇』に出演しているが、満26歳で出演した同作以降の出演記録が見当たらない[4][5]。「スラリとした容姿」で「得がたい風情」の持ち主であったが、女優として大成しなかった[3]。1947年(昭和22年)8月13日、円山公園内の自宅で死去した[10]

芸名

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フィルモグラフィ

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すべてクレジットは「出演」である[4][5]。公開日の右側には役名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の上映用プリントの現存状況についても記す[11][12][13]

日活太秦撮影所

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特筆以外すべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」である[4][5][6]。すべてサイレント映画、特筆以外すべて「久松美津江」名義である[4][5][6]

新興キネマ

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特筆以外すべて製作・配給は「新興キネマ」である[4][5]。同社は1935年に東京撮影所を新設して現代劇部を分離、従来の撮影所を京都撮影所とした。特筆以外すべてサイレント映画、すべて「久松三津枝」名義である[4]

製作 新興キネマ
製作 新興キネマ京都撮影所

フリーランス

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この時期、大都映画で舞台実演等も行なったが、具体的な作品名は不明である[8]。この時期、すべてトーキー、芸名は特筆以外すべて「久松三津江」名義である[4][8]

マキノトーキー製作所

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特筆以外すべて製作・配給は「マキノトーキー製作所」である[4][5]。すべてトーキー、特筆以外すべて「久松三津枝」名義である[4]

松竹下加茂撮影所

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すべて製作は「松竹下加茂撮影所」、配給は「松竹キネマ」である[4][5]。以降はすべてトーキーである[4]

東宝映画東京撮影所

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すべて製作は「東宝映画東京撮影所」、配給は「東宝映画」である[4][5]

  • をり鶴七変化 前篇』 : 監督石田民三、1941年4月9日公開 - お千賀(大学妾)、総集篇115分が現存(VHS発売)
  • をり鶴七変化 後篇』 : 監督石田民三、1941年4月9日公開 - お千賀(大学妾)、同上

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 久松三津枝jlogos.com, エア、2012年12月14日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 無声映画鑑賞会[2005], p.187.
  3. ^ a b c d e f g h 盛内[1994], p.285.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 久松三津枝日本映画データベース、2012年12月14日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 久松三津枝、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月14日閲覧。
  6. ^ a b c d e f 久松美津江日活データベース、2012年12月14日閲覧。
  7. ^ a b c 山田[2000], p.42.
  8. ^ a b c d 丸橋[2005], p.28.
  9. ^ a b c マキノ[1977]、p.338-374.
  10. ^ 『都新聞』昭和22年8月18日付
  11. ^ a b 久松三津枝、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月14日閲覧。
  12. ^ a b c d 久松美津江、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月14日閲覧。
  13. ^ a b 三津江、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月14日閲覧。
  14. ^ 遊侠太平記、日活データベース、2012年12月14日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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