久埜茂
久埜 茂(くの しげる、1884年(明治17年)10月 - 1970年(昭和45年))は、日本の逓信官僚、弁護士。元逓信省郵務局長。
経歴
編集鳥取県会見郡西福原村(現米子市西福原)出身。久埜龜吉の長男[1]。
米子中学(現米子東高校)、岡山の第六高等学校を卒業。次いで上京し東京帝国大学法科大学法律学科(獨法)へ入り1911年(明治44年)卒業[1]。文官高等試験に合格し逓信省に入る[1]。以来、通信事務官補、逓信局事務官補、逓信局副事務官兼戦時船舶管理局事務官、管船局書記官、逓信書記官兼高等海員審判所審判官、台湾総督府交通局参事、逓信大臣官房秘書課長同監察課長、広島逓信局長、逓信省郵務局長兼逓信官吏練習所長などを歴任した[1]。
1936年(昭和11年)3月に退官[1]。同年5月、逓信省主導で設立された九州北部の発電会社西部共同火力発電(本社は東京)の代表取締役常務に就任し、1939年(昭和14年)4月の会社解散まで在任した[2]。その後弁護士となり、米子に帰って開業する。のち再び上京して東京で亡くなった。
人物像
編集茂は25年間、逓信省に在職したが、その間、有給休暇を一度もとらず、自身の結婚式のときでさえ、本人の写真を飾って花婿不在の式を挙げたという[3]。
家族・親族
編集久埜家
編集久埜家は西伯郡福米村の名門だった。昔からこの地方の人は「久埜の智慧すじにはかなわん」といった。茂の弟たち(勉、昇、卓)もまた東大法科を出た。久埜の四人兄弟は郷党の間でも有名だった。
脚注
編集参考文献
編集- 『財界人物選集』1939年 237頁
- 『勝田ヶ丘の人物誌』2000年 37-39頁