乃木 希和(のぎ まれかず)は、江戸時代中期の長府藩士で、後に毛利匡敬(秀就)が長州藩主の家督を相続すると転出して長州藩士となる。定府の藩医。は希和。通称は金槌、朝可、道伯。長州藩士の乃木家の祖という。長州藩士時代の家格は御手廻組で、石高は250石。乃木希次は血統上の孫にあたる。

 
乃木希和
時代 江戸時代中期
生誕 元禄12年(1699年
死没 寛政8年10月13日1796年11月12日
別名 金槌、朝可、道伯(通称)
主君 毛利重就
長府藩士、長州藩
氏族 乃木氏
父母 打它六千代、乃木傳庵
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経歴

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定府の長府藩医乃木傳庵の甥で対馬藩士の打它六千代と、伝庵の娘との長男として誕生。元禄15年(1702年)に傳庵の長男久太郎が、乃木家を出ると、父が傳庵養子となるに従い、乃木家に入る。

尾張藩主・徳川継友に300石で仕官して尾張藩士になる予定であったが、平野丹波の取り成し[1]で取りやめとなる。主君の匡敬が長州藩を相続するに伴い、これに御供して宝暦2年(1752年)10月20日に長府藩から長州藩に転出し、石高250石知行の上、御手廻組の藩医となる。

なお、この時は父は生存中(宝暦6年(1756年)に死去)で希和は家督を相続しておらず、長府藩の乃木家を出て、長州藩で新たに乃木家を創設することになる。長府藩の乃木家は弟の乃木隋陽が相続する。

脚注

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  1. ^ なお、出典では清末藩主の毛利元知が取り成しに加わったとしているが、年代があわないので、ここでは省略する。

参考文献

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