丹羽 喬四郎(にわ きょうしろう、1904年明治37年〉3月30日 - 1978年昭和53年〉3月30日)は、日本内務官僚政治家

丹羽 喬四郎
にわ きょうしろう
生年月日 1904年3月30日
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市赤坂区(現東京都港区
没年月日 (1978-03-30) 1978年3月30日(74歳没)
出身校 東京帝国大学経済学部
前職 内務省官僚
所属政党自由党→)
自由民主党大平派
称号 衆議院永年在職議員
親族 三男・丹羽雄哉

日本の旗 第41代 運輸大臣
内閣 第3次佐藤改造内閣
在任期間 1971年7月5日 - 1972年7月7日

選挙区 茨城県第3区
当選回数 9回
在任期間 1952年10月2日 - 1955年1月24日
1958年5月23日 - 1978年3月30日
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運輸大臣衆議院議員(9期)を歴任。三男は丹羽雄哉

来歴・人物

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東京府東京市赤坂区生まれ。敬三の四男[1]

旧制麻布中学校旧制水戸高等学校を経て、昭和5年(1930年東京帝国大学経済学部卒業[2]。同年高文行政科合格[1]。昭和6年(1931年内務省に入り、大阪府警部補長野県満州国埼玉県、厚生省、京都府などの勤務を経て、昭和17年(1942年)千葉県官房長、群馬県警察部長、警視庁官房主事、情報局情報官を歴任、昭和22年(1947年)退職[2]

昭和22(1947年)~昭和25年(1950年公職追放[2]。昭和27年(1952年)茨城3区から衆院議員となり、以来9回当選[3]。昭和34年(1959年第2次岸内閣自治政務次官、昭和38年(1963年)衆院建設委員長、昭和46年(1971年第3次佐藤栄作内閣の運輸相となった[2]。衆院公職選挙法改正に関する調査特別委員長を6回重任。自民党副幹事長、地方行政部会長、建設部会長などを務めた[2]

昭和53年(1978年)3月30日、腸閉塞のため現職議員で死去。享年74。

略歴

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エピソード

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家族・親族

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丹羽家

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茨城県石岡市東京都
  • 妻・茂登子(茨城、笹目吉左衛門次女[1]
  • 長男[1]
  • 長女[1]
  • 次男[1]
  • 三男・雄哉[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 第二十一版 人事興信録(下)』(昭和36年)に四頁
  2. ^ a b c d e 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』469頁
  3. ^ 当選同期に大平正芳黒金泰美内田常雄灘尾弘吉宇都宮徳馬植木庚子郎加藤精三加藤紘一の父)・山崎巌今松治郎重政誠之町村金五町村信孝の父)・古井喜実など
公職
先代
橋本登美三郎
  運輸大臣
第42代:1971年 - 1972年
次代
佐々木秀世
議会
先代
福永一臣
  衆議院建設委員長
1963年 - 1964年
次代
森山欽司
先代
粟山ひで
  衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員長 次代
久野忠治