中野董夫
中野 董夫(なかの ただお、1926年6月18日[1] - 2004年8月15日[2])は、日本の物理学者。大阪市立大学名誉教授、大阪市立科学館初代館長。
生前、西島和彦とともに1961年および1970年のノーベル物理学賞の共同受賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している[3]。
略歴
編集東京都出身[2]。1948年大阪大学理学部物理学科卒業。1950年に大阪市立大学理工学部に助手として着任し、教授の南部陽一郎、助教授の早川幸男、講師の山口嘉夫、助手の西島和彦とともに理論物理学のグループを立ち上げた[4]。1953年には西島とともに中野・西島・ゲルマンの法則を提唱。
1990年に大阪市立大学を定年退官した後は、大阪市立科学館の初代館長に就任した[5]。
中野・西島・ゲルマンの法則の法則を基に、坂田模型や大貫義郎などによるIOO対称性、SU(3)モデル、さらにクォークモデルが創られることになる。
生前、西島とともに1961年および1970年のノーベル物理学賞の共同受賞の候補(1970年は坂田昌一も)に挙がっていたものの、受賞を逸している[6][7]。
2004年8月15日、肺炎のため死去[1]。
著書
編集脚注
編集- ^ a b 『現代物故者事典2003~2005』(日外アソシエーツ、2006年)p.434
- ^ a b 中野董夫氏死去 大阪市立大名誉教授 Archived 2014年8月19日, at the Wayback Machine. 47NEWS(共同通信)、2004年8月16日
- ^ Nomination Database
- ^ 南部陽一郎の独創性の秘密をさぐる(3) 本格的大仕事まで8年間のトンネルを貫通した南部の精神 現代化学2009年4月号
- ^ 中野董夫さんを偲んで 西島和彦、日本物理學會誌 59(10), 723-724, 2004-10-05、一般社団法人日本物理学会
- ^ 東京新聞:朝永氏、受賞前に7回「候補」 ノーベル賞選考資料:国際 Archived 2014年8月19日, at the Wayback Machine. 東京新聞、2014年8月14日夕刊
- ^ Nobel Prize in Physics 1970 - Nomination archive(ノーベル財団、英語)。推薦者は湯川秀樹である。