中野 寅次郎(なかの とらじろう、元治元年9月26日[1]1864年10月26日) - 昭和15年(1940年4月21日[2])は、日本の衆議院議員立憲政友会)。ジャーナリスト

中野寅次郎

経歴

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土佐国高知の中山家に生まれ、中野久尾の養子となった[1]1882年明治15年)、高知県師範学校を卒業[2]。しばらく教職にあったが、板垣退助自由民権運動に参加し、各地で遊説を行った[3]三大事件建白運動の際には片岡健吉に従って、保安条例で東京から退去を命じられた[3]。また新聞記者として活動し、『土陽新聞』記者、『愛国新聞記者』、『自由党報』監督、『人民新聞』監督、自由通信社主幹を務めた[2]

一方で、小石川区会議員、小石川区長、東京市会議員を務め、尾崎行雄市長時代には東京市土木部長に就任した[3]。その後、満洲興信公所所長、満洲水力電気株式会社取締役、鬼怒川水力電気株式会社副社長、土陽新聞社社長などを務めた[2]

1917年大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。

脚注

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  1. ^ a b 『人事興信録』な65頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』
  3. ^ a b c 『憲政と土佐』pp.119-120

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。 
  • 板垣会『憲政と土佐』板垣会、1941年。 
  • 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。