中谷雄英
中谷 雄英(なかたに たけひで、1941年7月9日 - )は、日本の柔道家・柔道指導者。講道館9段。
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中谷雄英 | |||||||||||||||||||||
基本情報 | |||||||||||||||||||||
ラテン文字 | Takehide Nakatani | ||||||||||||||||||||
原語表記 | なかたに たけひで | ||||||||||||||||||||
国 | 日本 | ||||||||||||||||||||
出生地 | 広島県広島市 | ||||||||||||||||||||
生年月日 | 1941年7月9日(83歳) | ||||||||||||||||||||
身長 | 167cm | ||||||||||||||||||||
体重 | 68kg | ||||||||||||||||||||
選手情報 | |||||||||||||||||||||
階級 | 男子68kg級 | ||||||||||||||||||||
段位 | 九段 | ||||||||||||||||||||
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1964年東京オリンピック柔道男子68kg級金メダリストでオリンピック柔道競技、最初の金メダル獲得者である。身長167cm[1]。
来歴
編集広島県広島市出身。兄弟4人がすべて黒帯という柔道一家に生まれ、12歳から柔道を始める。広島市立袋町小学校・広島市立国泰寺中学校・山陽高等学校(一学期)・広陵高等学校・明治大学卒業。広陵高校時代には“広島の姿三四郎”の異名をとった[2]。二段モーションからの素早い左小外刈を中心に、背負投、足技と特に寝技の巧みなオールラウンドで堅実な柔道で知られた。しかし進んだ明治大学は当時、村井正芳、鳥海又五郎、坂口征二、関勝治らを揃えた黄金時代だったため、団体戦ではレギュラーに入れなかった。柔道が初めて正式種目となった1964年の東京オリンピックの軽量級(68kg以下)の選考過程においても闘志を内に秘めるタイプで、責任重大な初戦、更に外国人相手では不利と見られていたが、オリンピック選手村に入る数日前、ギリギリでの発表でオリンピック代表の座を射止めた。
1964年、10月21日、全勝の使命を背負って臨んだニッポン柔道の先陣を切り、オール一本勝ちの完全勝利。試合時間合計、わずか9分間で柔道競技史上最初のオリンピック金メダルを獲得[1]。新装直後だった日本武道館のセンターポールに、柔道最初の日の丸を揚げた。しかし代表になれれば金メダルは確実と言われた時代であり、当時の柔道界は「無差別こそ柔道」という雰囲気が強く、その無差別級で神永昭夫がアントン・ヘーシンク(オランダ)に敗れたため、あまり祝福されることはなかった。この悔しさをバネに、その後、柔道界の最高峰、体重無差別の全日本選手権に三度出場を果たし、柔道家としての意地を見せた。
明大卒業後は三菱レイヨンに5年間勤務。その後西ドイツ代表ナショナルコーチに就任し地元開催のミュンヘンオリンピックまでの3年間を指導。軽重量級のバルト、重量級のグラーンらのメダリストを育てた。
1973年から広島に戻り、家業の宝石店を経営。また全日本柔道連盟理事、広島県柔道連盟理事長などの要職に就き後進の指導にあたる。
競技振興の功績により2003年、藍綬褒章、2011年、旭日双光章受章。2012年4月28日には講道館創立130周年記念式典にて9段に昇段し、赤帯を許された[3]。2021年に文化功労者[4]。
主な戦績
編集脚注
編集- ^ a b Biography and Olympic Results[リンク切れ]Archived 2020年4月17日, at the Wayback Machine.
- ^ “中谷雄英氏の教え子古賀早也香が一本負け「力負け」”. 日刊スポーツ (2017年3月19日). 2019年11月24日閲覧。
- ^ “講道館創立130周年記念 九段昇段者および新九段のことば”. 機関紙「柔道」 (財団法人講道館). (2012年6月1日)
- ^ “長嶋茂雄さんら9人文化勲章 功労者に加山雄三さんら”. 時事ドットコム (2021年10月26日). 2021年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月5日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 中谷雄英-変幻自在の足技
- 中谷雄英 - JudoInside.com のプロフィール