中条祭り
中条祭り(なかじょうまつり)とは、新潟県胎内市熊野若宮神社の例大祭のこと。毎年9月3日から9月6日にかけて行われる。古くは「熊野若宮神社大祭」と呼ばれており、昭和48年(1973年)から昭和53年(1978年)までは「中条町振興まつり」、昭和54年(1979年)から「中条まつり(中条祭り)」と呼ばれている。また「中条大祭」と表記される場合もある。本町通りから熊野若宮神社境内にかけて、200軒ほどの出店が立ち並ぶ。
日程
編集- 9月3日 民謡流し
- 9月4日 出店・山車(煽り合い)・台輪等
- 9月5日 出店・山車(5組の山車による一斉煽り合い)・台輪・神輿・朝太鼓・他イベント多数
- 9月6日 出店・山車(煽り合い)
山車について
編集歴史
編集人形を乗せた2階建ての山車
編集- 中条祭りの山車は、1862年(文久2年)神明組が熊野若宮神社から小台輪を譲り受けた事に始まる。この小台輪を神明組は1880年(明治13年)に手直しを行い、山車として初めて曳き回しを行う[1]。この頃の山車は2階建てであり、1階にお囃子を乗せ、2階には人形(神明組は神武天皇、北組は乃木大将)を乗せていた。しかしこの2階建ての山車は10年程で(もしくは明治後期に)終わったものと考えられている。
芸者を乗せた平屋の山車
編集- 1876年(明治9年)、それまで各町内にあった廊を新町に集め花柳界が作られる。
- 明治中頃から明治終わりにかけて、新町では芸者と三味線による門付けが行われ、明治後期から昭和初期にかけては、舞台で芸者総出の手踊りが行われる。
- 1902年(明治35年)頃、舞台を真似た踊場(座敷)に東屋風の屋根を付け、芸者を乗せる山車が新町で製作される。この頃、新町は下町と共に下新組を創設。
- 神明組、北組、東西組(順不同)の山車も製作され、大正初期には現在と同じ形の山車が製作されている。
- その後は戦争による中断【1940年(昭和15年)頃~終戦】があるものの、神明組が1945年(昭和20年)に樽神輿で祭りに復帰。1946年(昭和21年)には山車を新造する。新町も単独で1946年(昭和21年)樽神輿で祭りに復帰すると、1947年(昭和22年)には驛新組[2]として山車を新造する。北組も1947年(昭和22年)山車を新造し祭りに復帰した。東西組は、戦後休止したまま消滅する。
- 1971年(昭和46年)、西栄町が山車を新造し西栄組として祭りに参加。山車製作に当たっては、善良寺の縁の下に保管されていた東西組の車輪を使用する。この他、善良寺には屋根や台等があり、戦前善良寺で山車の製作が行われていたと考えられる。
- 1972年(昭和47年)、本町がこども山車を製作し本町組として祭りに参加。1991年(平成3年)には現在の大きさの山車を製作し、1999年(平成11年)に本組となる。
- 1975年(昭和50年)、北組はこども山車に変更[3]するものの、1988年(昭和63年)に現在の山車へ再度変更する。
- ※ 驛新組の山車の表記は「花車」であるが、便宜上「山車」と表記する。
特徴
編集- ・二輪、平屋造り、芸者の踊場がある。
- ・山車には芸者、三味線、歌い手、太鼓、篠笛が乗っており、生演奏と共に芸者が踊りを披露する。
- ・「杉入れ」と呼ばれる杉枝による飾付けがある。このため杉の良い香りがする。
- ・二輪構造のため、シーソーのように両端を上下することが可能で、山車の両端を勢い良く上下させる事を「煽り(あおり)」と呼び、複数の山車による煽りを「煽り合い」と呼ぶ。
- ・車軸には楔が刺してあり、曳き回しにおいては車輪と楔が擦れることにより「ギーギー」と音を発する。
各組の山車
編集台輪について
編集歴史
編集- 1768年(明和5年)会津から移り住んだ会津屋源八により寄進されたものに始まる(神明組に譲った小台輪はこの台輪と考えられる)。
- 現在の台輪(二代目)は1862年(文久2年)村上の山脇三作によって作られたもの。1台の台輪が熊野若宮神社に現存している。
特徴
編集- ・二輪、2階建て。
- ・1階にお囃子を乗せ、2階に人形(猩猩様)を乗せている。(芸者は乗せていない)
- ・山車の曳き回しと異なり、煽りは行わない。
- ・先述の「山車」と同じ祭屋台であるが、こちらは「台輪」と呼ばれている。