中村正爾
生涯
編集新潟県新潟市に生まれる。少年の時から絵が好きで、また好んで七五調の新体詩を作る。中学3、4年で水彩や油絵を制作するとともに、「美術新報」「現代の洋畫」「白樺」などの雑誌を耽読し美術学校の洋画科を目指して中学を卒業する。父の反対に遭い、医者になるために明治大学専門部予科に進むが、1917年(大正6年)に父の死により郷里の新潟に戻り、新潟師範学校を卒業[1]。
小学校教師の傍ら短歌を作り、相馬御風や北原白秋の指導を受け、歌誌「路人」を刊行。1922年(大正11年)、白秋を招いて“白秋童謡の夕べ”を開催。白秋はこの時の印象をもとに「海は荒海 向こうは佐渡よ」で知られる童謡「砂山」を作り、新潟の子どもたちに贈った。同年上京、白秋の実弟・鉄雄が経営する出版社・アルスに入社。白秋と山田耕筰が主宰する「詩と音楽」の創刊に携わった他、「日本児童文庫」「白秋全集」などを手がけた[1]。1954年(昭和29年)退社。この間、1929年(昭和4年)に藤川忠治と自由な立場で「歌と評論」を創刊したが、1934年(昭和9年)に脱退し、1935年(昭和10年)に白秋主宰の「多磨」創刊に参画、白秋没後の1952年(昭和27年)に終刊となるまで他の同人と協力して編集にあたった。1953年(昭和28年)「中央線」を創刊・主宰。
歌集
編集- 『春の音階』 … 1921年(大正10年)~1935年(昭和10年)、約400首
- 『海港』 … 1935年(昭和10年)~1943年(昭和18年)、約500首
- 『冬の星図』 … 1943年(昭和18年)~1952年(昭和27年)、約500首
- 『中村正爾歌集』