中村大塚古墳
中村大塚古墳(なかむらおおつかこふん、宮本古墳)は、栃木県真岡市中にある古墳。形状は円墳。真岡市指定史跡に指定されている。
中村大塚古墳 | |
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墳丘 | |
別名 | 宮本古墳[1] |
所在地 | 栃木県真岡市中(中村八幡宮境内) |
位置 | 北緯36度24分50.95秒 東経139度57分13.30秒 / 北緯36.4141528度 東経139.9536944度座標: 北緯36度24分50.95秒 東経139度57分13.30秒 / 北緯36.4141528度 東経139.9536944度 |
形状 | 円墳 |
規模 | 直径25m |
埋葬施設 | 両袖式横穴式石室 |
出土品 | 革帯金具・鉄鏃・小札甲小札・馬具・須恵器・土師器 |
築造時期 | 6世紀末 |
史跡 | 真岡市指定史跡「中村大塚古墳」 |
地図 |
概要
編集栃木県南東部、鬼怒川東岸の河岸段丘西縁(標高約68メートル)に築造された古墳である[1]。一帯には古墳数基が認められ、古墳群を形成した様子が示唆される[1]。現在は中村八幡宮境内に所在し、墳頂には小祠が祀られる。かつては石室が開口したが、2011年(平成23年)の東日本大震災の際に崩壊している。
墳丘には中村八幡宮境内に築かれた土塁が取り付き、現在は前方後円墳状を呈するが、元は直径25メートル程度の円墳と見られる[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口した。石室内は盗掘に遭っているが、調査では革帯金具・鉄鏃・小札甲小札・馬具・須恵器・土師器が検出されている。築造時期は古墳時代後期の6世紀末[1](または6世紀末-7世紀初頭[2])頃と推定される。
遺跡歴
編集埋葬施設
編集埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口した(現在は崩壊)。石室の規模は次の通り[1]。
- 石室全長:現存8.06メートル
- 玄室:長さ4.2メートル、幅1.44メートル(奥壁)・1.72メートル(最大)・1.16メートル(前壁)
- 羨道:現存長さ3.9メートル、幅0.5-0.7メートル
玄室の平面形は胴張りを呈する。奥壁は緑色凝灰岩の一枚石で、やや内傾して立てる。側壁は川原石の小口積みで、やや持ち送って白色粘土で目張りをする。玄門は緑色凝灰岩の切石4枚によって構築される。天井石は6枚が遺存した[1]。
石室内の調査では、玄室から鉄鏃・小札・土師器(坏)・須恵器(大甕)片が、羨道から小札・飾金具(革帯装飾用)・吊金具・須恵器(坏)が検出されている。須恵器坏は8世紀代のもので、羨道部の上層で出土したため、追葬または墓前祭祀に伴うものと見られている[1]。
文化財
編集真岡市指定文化財
編集- 史跡
- 中村大塚古墳 - 1992年(平成4年)3月13日指定[2]。
脚注
編集参考文献
編集- 史跡説明板(真岡市教育委員会、1996年設置)
- 「中村大塚古墳」『真岡市史 第1巻 考古資料編』真岡市、1984年。
- 「大塚古墳」『日本歴史地名大系 9 栃木県の地名』平凡社、1988年。ISBN 4582490093。