中嶋舜司
中嶋 舜司(なかじま しゅんじ 1895年〈明治28年〉3月7日[1] - 1981年〈昭和56年〉3月11日[1])は、東京都立川市長(2期)。
経歴
編集東京府北多摩郡立川村(立川町を経て、現在の東京都立川市)生まれ。東京府立第二中学校(現在の東京都立立川高等学校)卒業。立川村会議員、同町会議員、同市会議員を務める[2]。その後、同議長、農業委員会委員長などを務める[2]。
戦後の1947年、立川市長に就任[2]。1期目は市公民館の建設に着手、自治体警察の発足、市営火葬場の建設、児童相談所の開設、上下水道も計画された[2]。
1951年に板谷信一郎に市長を譲るも、1955年に再び市長に就任。立川基地拡張を巡り、反対闘争が起こる。立川市は近隣の昭島市との合併を申し入れたが、拒否された[3]。そんな中、立川市役所第一庁舎が完成、アメリカカリフォルニア州サン・バーナディノ市との姉妹都市締結、市営野球場の完成があった[3]。
1959年に市長を退任した。1981年に86歳で死去した。
脚注
編集参考文献
編集- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年。