与那原親方良応(よなばるうぇーかたりょうおう、1761年10月25日 - 1820年11月5日)は、琉球王国官僚。唐名は馬異才(ば いさい)を名乗った[1]

与那原 良応
三司官
任期
1805年 – 1820年
前任者喜屋武朝昶
後任者伊舎堂盛元
個人情報
生誕 (1761-10-25) 1761年10月25日
死没1820年11月5日(1820-11-05)(59歳没)
唐名馬 異才
称号親方

1805年から1820年にかけては、三司官を務めた[2]1816年には、朱熹が記した儒教の幼児教育教本である『童蒙須知』を日本語に訳し、学校で教えた[3][4]

関連項目

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公職
先代
喜屋武朝昶
三司官
1805 - 1820
次代
伊舎堂盛元