挹江門事件(ゆうこうもんじけん)とは、1937年(昭和12年)12月12日夜の南京戦において、城内に進撃する日本軍の攻撃によって敗走して挹江門を通り抜けようとした中国国民政府軍87師、第88師および教導総隊の潰走兵と、それらを武力阻止するよう唐生智に命ぜられた督戦隊である国府軍第36師212団とが衝突して双方が発砲した結果、約一千名[要出典]の中国軍兵士が死亡した事件。[1][2]

事件数日後の12月17日に挹江門を行進する日本海軍将兵(1937年12月17日)
現在の挹江門(2004年4月16日)

背景

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日本軍が企図した南京攻略戦に対し蔣介石は南京死守を命令したが、彼自身は12月7日早々に南京から脱出していた。

挹江門は長江に面する城門で、通行用に三つのゲートが開いていた[3]。中国軍は城門すべてにバリケードを張り巡らせ、重要な門にのみ狭い通路を残し、他は砂嚢を積み上げ、コンクリートで固めて閉門した[4]

日本軍は門を通過せず、はしごを用いて城壁を乗り越えた[4]

事件の概要

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12月12日南京城の中華門光華門が陥落する数時間前には南京防衛軍司令官唐生智は南京城西北の港湾地区下関から揚子江対岸へ脱出した。逃げ遅れた将兵は唯一の脱出口であった南京城西北の挹江門に殺到したが、門は既に閉じられており、城壁を乗り越えて脱出するしか方法がない状況だった。

この際、挹江門の防守部隊督戦隊と退却兵が衝突し、双方に死傷者が発生。圧死などを含めた死者は、スミス記者によれば、約千名と伝えられる[要出典]。高さ2メートルに及ぶ死体の山を乗り越えて南京城の城壁を急造のロープで降りようとした多くの将兵が墜落して死亡している[1]。国民革命軍教導総隊輜重営長・郭岐はこの修羅場を避けて部下500名と難民区に避難し、自身はイタリア領事館に潜入した[1]


当時の報道

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  • A・T・スティールはシカゴ・デイリー・ニューズ1937年12月17日記事で、北門(挹江門)には「かつて二〇〇人ほどの人間であったはずのものが、くすぶる肉塊と骨片の集積となっていた。城門を出て、城壁に吊り下げられた衣服や毛布で作った紐縄を見た。城門が閉鎖されたことを知った後に大勢がそこから町を脱出したのだが、ただより恐ろしい死の罠にはまっただけであった」と報道した[5]
午後おそくには、下関門の狭い通路を大勢の中国兵が通り抜けようとして、大混乱となった。兵隊は争って門を通り抜けようとしたため、パニックとなった。兵隊は軍服をつなぎ合わせて壁をよじのぼるロープを作った。午後八時、唐将軍が密かに市を脱出し、他の高位の指揮官も同様に脱出した。
夕方には、退却の中国軍は暴徒と化した。中国軍は完全に瓦解した。(略)

日曜日夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎ始めた。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。軍服と一緒に武器も捨てられ(略)下関門近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。(略)
真夜中、市内でいちばん立派な、建築費二〇万ドルの建物に火が付けられ、内部に保管されていた弾薬が何時間も爆発しつづけ、それは壮絶な光景であった。外にあった廃物の山にも引火して、翌日遅くまで燃え続けた。(略)
いくらかの中国部隊は下関にたどりつき、数少ないジャンク船を使い、バンドから長江を渡河したことは間違いない。しかし、多くの者が川岸でパニック状況のなかで溺死した。

(12月13日月曜日)日本軍が下関地域を占領し、城壁による囲い込みを完全なものにした。城内に取り残された中国軍は、完全に閉じ込められてしまった。下関地域で捕まった部隊は、殲滅された。 — ニューヨーク・タイムズ1938年1月9日(上海1937年12月22日発)
またダーディンは1987年8月のインタビューでは、
下関地区では、それこそ大勢の兵隊が邑江門から脱出しようとして、お互いに衝突したり、踏みつけあったりした

私たちが南京を出るときに、この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らねばなりませんでした。この門から脱出しようとした中国軍の死骸です。
中国軍はあちこちで城壁に攀じ登り脱出を試みました、これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。

この地域で戦闘はありませんでした。
と答えている[6]

事件を描いた作品

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阿壠『南京』

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国民党将校として上海戦に従軍したが負傷した阿壠(あろう、本名は陳守梅)は1939年重慶爆撃下の重慶小説『南京』を発表した[3]。阿壠『南京』では挹江門事件の場面があり、唐生智司令官を乗せた戦車が中国兵や中国人市民を踏み潰して逃走していくのが描写されている[3]

挹江門の三つの城門はすべて半分しか開かれてなく、あとは砂嚢で塞がれていた。守備部隊は人の通行を一切禁じて、群衆に対して散発的な威嚇射撃をしている。群衆は盛んに罵り声をあげて大騒ぎをしている。しかし群衆はこの城門を結局突破した……この群衆に対し、守備部隊が機関銃の掃射を開始した。大混乱に陥った群衆の中からもこれに応戦して発砲する者があり、城門の上と下とでまるで市街戦を演じているようだ。秩序など完全になくなり、人々が際限なく密集してくる。倒れた人の顔を後から押し寄せる人が次々に踏んでいく。鼻がつぶされ、眼球が飛び出し……人がばたばたと倒れる。押し寄せる人の足元で秋の虫のようなうめき声が広がり、倒れ重なった人垣から号泣が響く。それでも人々は城門をめがけて突き進むのだった……「上から撤退せよと命令されているんだから通せ!」、「上からは誰一人絶対に通すなと命令されているんだ!」……倒れていく人、押し寄せる群衆……間もなく、死体と重傷の人間が、半分だけ開いていた城門を厚く厚く塞いでいった。


阿壠『南京』は、中国軍の描写が問題となり1987年まで刊行されなかった[3]

石川達三

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石川達三が1938年発表した小説『生きてゐる兵隊』では、中国軍南京司令官のトラックが中国兵を踏み潰しながら逃走していく場面として次のように描写されている[3]

南京防衛軍総司令官唐生智は、昨日のうちに部下の兵をまとめて、挹江門から下関に逃れた……挹江門を守備していたのは広東兵の約二千名であった。彼らはこの門を守って支那軍を城外に一歩も退却させない筈であった。唐生智とその部下とはトラックに機銃を載せて、城門を突破して下関に逃れたのであった……挹江門は最後まで日本軍の攻撃を受けなかった。城内の敗残兵はなだれを打ってこの唯一の門から下関の碼頭に逃れた。前面は水だ。渡るべき船はない。陸に逃れる道はない。彼らはテーブルや丸太や板戸や、あらゆる浮物にすがって洋々たる長江の流れを横切り対岸浦口に渡ろうとするのであった。その人数凡そ五万、まことに江の水を真っ黒に掩うて渡っていくのであった。そして対岸に着いてみたとき、そこには既に日本軍が先回りしてまっていた。 — 石川達三生きてゐる兵隊

脚注

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  1. ^ a b c 『南京戦史』 pp.274-275
  2. ^ 笠原 (1997) 126-140頁
  3. ^ a b c d e 関根 謙「戦争と文学-日中両国の悲劇と新生-」2012年10月20日慶應義塾大学、全国通信三田会。『南京』は1987年に『南京血祭』として刊行、邦訳は関根謙訳『南京慟哭』五月書房 (1994)。
  4. ^ a b c ニューヨーク・タイムズ1938年1月9日(上海12月22日発)南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」p428-441
  5. ^ A. T. Steele,War's Death Drama Pictured by Reporter,Chicago Daily Newsシカゴ・デイリー・ニューズ1937年12月17日南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」,p.469.
  6. ^ 『南京事件資料集』アメリカ関係資料編p571

関連項目

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参考文献

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  • 南京戦史編集委員会『南京戦史』偕行社、1989年11月3日。 
  • 南京戦史編集委員会『南京戦史 増補改訂版』偕行社、1993年12月8日。 
  • 南京戦史編集委員会『南京戦史資料集』偕行社、1989年11月3日。 
  • 南京戦史編集委員会『南京戦史資料集II』偕行社、1993年12月8日。 
  • 笠原十九司『南京事件』岩波書店岩波新書〉、1997年。ISBN 4-00-430530-6 

外部リンク

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