下間頼良
下間 頼良(しもつま らいりょう)は、戦国時代の武将、本願寺の僧侶。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 大永5年(1525年) |
死没 | 永禄8年11月2日(1565年11月24日) |
別名 | 大蔵卿(通称)、道嘉(法名) |
官位 | 法橋 |
主君 | 証如→顕如 |
氏族 | 下間氏 |
父母 | 父:下間頼次 |
兄弟 | 頼言、頼良 |
略歴
編集天文5年(1536年)に本願寺へ出仕、本願寺10世法主証如に仕えた[1]。11世法主顕如の代では同族の下間頼総・下間頼資や兄の下間頼言と共に奏者を務めた。奏者就任については、父頼次も奏者だったこと、祖父の下間光宗が8世法主蓮如に伺候していたこと、義姉(兄の妻、叔父の下間頼清の娘で従姉妹)も証如の母鎮永尼に伺候していたことが影響していたとされる[2]。
弘治2年(1556年)、朝倉義景と加賀の門徒との和睦交渉をしていた兄が急死すると(超勝寺顕祐による毒殺とされる)、本願寺から加賀へ派遣され一揆側を説得、和睦を実現させた。同年4月21日、朝倉勢は陣を払って越前へ撤兵し、越前・加賀の間にはつかの間の和平が見られた[3][4][5]。
顕如が永禄2年(1559年)に門跡に列せられると、門跡寺院の制度にある僧房を坊官(大名家における家老に相当する)に改められ、下間氏が俗務を担当した。その際、頼資・頼総・頼良の3名が坊官とされ、頼良は法橋となり大蔵卿を名乗った[1][6]。
永禄8年(1565年)、41才で生害(自害)。
本願寺史料研究所報(第34号)の「本願寺御家中衆次第について」の中の御前衆之次第 年号不知 顕如上人の御時代に以下のように記載がある。
下間大蔵卿法橋 異本に頼良トアリ 永八十一二日生害四十一才
脚注
編集- ^ a b 柏原祐泉 & 薗田香融 1999, p. 156.
- ^ 金龍静 & 木越祐馨 2016, p. 22-23.
- ^ 福井県 1994, p. 761.
- ^ 柏原祐泉 & 薗田香融 1999, p. 154,156.
- ^ 神田千里 2020, p. 40-42.
- ^ 金龍静 & 木越祐馨 2016, p. 42.